久しぶりに興味深く、五木寛之の作品を拝読する。
20代の頃から、時々ではあったが氏の小説に触れ、
その世界に入り込み、心の世界旅行を楽しんできた。
ここ10年ほどは、エッセイや生き方本を読むと
じんわり共感共鳴、大きく頷くことも多い。
この混迷の時代、一人一人が
どう生きるべきか・・・のヒントが多く、わかりやすく、
読む者に静かに力を与えてくれるような気がする。
そんななか、この連休は「デラシネの時代」と
「マサカの時代」を書店で見つけ、拝読した。
後者は想像しやすいが、前者の「デラシネ」・・という
言葉は耳新しい。これはフランス語で「根無し草」という
意味だそうで、五木氏は自ら異国で終戦、のち
半生を漂流者として生きてきた・・そんな生い立ちから
この言葉に自らの人生を重ねたそう。
85年生きてこられた人生を、世界をその視点で見て
こられたその集大成が本書なのだと理解する。
まさにこのタイミングなのだと、またまた首を縦に
大きく振る。
実は、50年程前には、この言葉がタイトルに
なった小説(「デラシネの旗」)も書かれているとのこと。
そして、今は今の時代を、この目線で描かれている。
難民が問題になっているこの世界で、皆多かれ少なかれ
難民のようなものだよ・・・と仰っている。
見え方は違っても、歴史の中で、個々人の事情のもと
漂流している人は多いのだ。
相変わらずの、五木さんの確かな目線、深い思想に
感銘をうける。
根無し草・・・。ふるさとを捨てた人、捨てざるを得なかった人、
漂流者、難民・・・。
理由はどうであれ、定住しない生を受けた人は
みな、デラシネだ。
とすれば、私自身も実はそうだ。
実は、どこにいても、いつも漂流しているような感じがしている。
人生はレンタルである・・と思っているところも、そういうことだ。
以前、ある人から、「風の人」と言われたことがあるが、
自覚もしている。
私は一つの場所にじっとしていられない、ふるさとにいられなかった、
動くことが人生であると、ジプシーのような生き方がいいと
その方がよく物事が見えると思ってきた。
今の時代、これしかない・・はない。
安定した地、安住の地もない。
侵入されない場所もない。
とすれば、常に、自分が向かうべきと思うところへ動く方が
幸せな人生を生きられるのかもしれない。
農耕民族としての日本人にはこの感覚は薄いかもしれないが、
変化する世界の中で生きていくには、この発想は
大切だ。
五木さんは、ご自身がデラシネとしての人生を生きて
こられたからこそ、今、作家として発信すべき
メッセージを多くお持ちなのだと納得する。
そうせざるを得なかった辛さが、生きる力となる。
さて、私自身は??
小さなデラシネとして、何ができるのか・・。
心の漂流者としての自覚をもち、自分ができること
似合うことをもっと突き詰めよう。
いい学びをまた、五木さんからいただいた。