最近話題になり、中身とは関係なくヒットしてしまっているらしいアメリカ映画。その素材が問題となり、サイバーテロから報復、国際問題へと事態は深刻だ。一方で、自由の国、フランスでテロが発生。風刺という手法が、憎悪からあってはいけない事件へと発展してしまった。
報道の自由は民主社会の基本ルールだ。確かにそうだと思う。しかし、こういえばそのネタになった相手は、どう受け留めるかも織り込み済みで発信する責任はあると思う。映画もあえてマスメディアと言わせていただくが、メディアは国をも動かず、戦争をも引き起こす危険な面ももっている。
報道、発信の相手とは、顧客といったビジネス上のマジョリティの受け手ではなく、映画にせよ、雑誌にせよ、マスメディアなのであるから、多種多様な人が受信する。それも自由だ。またひとたび知れば面白がる人もいて、怒り狂う人もいるから、映画も風刺も面白い、そこがエンターテイメントだというかもしれないが、そのことにより死傷する人が出ることも考えているだろうか?
「そんなこと言っていたら、いい映画なんか、報道なんかできないよ。」と言われるかもしれないが、ネット社会である今日、いろんな受け手がいてそれが過熱しやすいことも心得て、自らの発信、報道について取り組むべきではないか。
ネット社会のなかで、現実で映画のようなことが起き、どれもこれも恐ろしいと思う。
発信する人たちは、本当にプロと言うならば、自分たちの行動がもたらすかもしれない世の中への影響についてよく熟慮し、人々が平和に、幸せになるためのことだけを発してほしい。と、最近の世界を揺るがしている2つの事象から共通点を感じているのは私だけだろうか。人は誰でも、自分がネタにされたり、自分の意に沿わないことを他人に言われたり、されたり、面白おかしく扱われることは面白くない。バカにされているように思ってしまうことも自分がその立場だったらあるかもしれない。メンツがある立場の人ほどそのはずだ。ま、マスコミも映画会社も、そんなこともわかっているよ。ときっというだろうが、そのことにより傷を受けたり、恐怖におびえている人がいる現実に目を向けてほしい。この頃は、情報社会が悲しいとも思える。
報道の自由と素材になる不満と
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