ここんところ、手の話題が続く。どうも、大変気になっているようだ。
手の作業8割以下におさえねば、と「いたっ」「いたっ」と日常の
作業をしながら、偶然目に飛び込んできた、ドキュメンタリー。
それは、生まれつき左の肘より先がない、7歳の少年の話。
彼は今、筋電義肢という装具を使い、食事や勉強をがんばっている。
サッカーの練習をお父さんとしているときは、その装具はしていない。
食事の時間になると、自然とそれを付けて「いただきます」。
残っている神経に電気を通し、自分の意志通りに義肢を動かせる
という画期的な義肢のようだが、まだ全国に広く普及しているとは
いえないようだ。
その筋電義肢を付けて、バイオリンを演奏する少女の映像をずっと
みつめる同じく、手が不自由な少女。
ああ、自分も自由に、あんなふうに弾きたい・・・
そんな少女も登場した。
みんな、えらいな。えらいな。
私は贅沢だ。
痛いということは、「ある証拠」であり、生きている証拠だ。
痛みを感じることは、苦痛と思いがちであるが、
見方を考えたら、幸せなことだろう。
あの純粋な、明るい少年たちの暮らしぶりを見て、
痛いぐらいで気にするな~。
と自分に叱咤激励。
生きているだけで幸せ。動けるだけで幸せ。
そのことを、改めて忘れてはいけない。