新聞屋さんには罪はないのだけれど・・。

メディアとは、ニュースとは、本来事実をきちんと伝えるというために誕生したはず。
もともと、マスコミは中立の立場で、社会の公器として、正しい情報を提供するためのもの。
もちろん、メディアによって主義主張があることは良いことで、
最後までジャーナリズムとしての役割を全うすることが求められる。

人々はこれらの情報を得て、判断をしてきた。
どれを支持する、しない。。。が明確であった。
しかし、今はメディアのプロではない人たちの「メディア参加」により、
情報発信の秩序が崩れ、まさにカオスの状態だ。

最近では、フェイクニュースがさも意味があるように報じられているが、
この嘘を「もうひとつの真実」といってしまうと、もう何が何だか・・。
もう何が本当で、何がそうでないのか・・を見極める基準がわからなく
なってきたのだ。

最近、この春からの新聞購読をひとつストップした。
マスコミであるならば、書かねばならないと思われることについて、
一切書いていないことに、失望したからだ。

マスコミは権力に対して、いうときは言わねばならない。
いい子ちゃんのメディアは時の権力のいいなり・・。
毎朝、このいい子ちゃんニュースを読みたくないと思った。
人は自分に合った感性、問題意識に即したメディアを選ぶ。
もう見るべきメディア、番組がどんどんなくなっていく。
それならそれでいい。
いちいち、どうでもいいことに労力を費やすマスコミたちに
腹を立てるぐらいなら、見なければ、読まなければいいのだ。
今こそ、物事を知る根本に迫っていくべきだ。

と、新聞屋さんにはまったく罪はないのだけれど、
個人的には新聞屋さんには感謝し、敬意を表しているが
メディアの社会との向き合い方への違和感については、
妥協できないときがある。

昨今のメディアが発する情報の混乱から、
いかに気持ち良い朝を迎えるか・・の選択が難しく
なってきている。

そんなこんなで、3月が始まる。
振り回されることなく、しっかり前を向いて、
進むべき道を判断しながら、前進しよう。

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