長崎の地で学ぶ、我流の哲学。

最近続けて登場しているが、遠藤周作の「沈黙」の舞台である長崎の外海(そとめ)地方。
潜伏キリシタンの里のひとつである。
そこに尊敬するド・ロ神父が設計された教会のひとつに、出津教会がある。
久しぶりにそこを訪ねると、世界遺産を目指すスローガン入りのジャンパーを
着ている男性に出会う。
わざわざ、ここまで来ている異邦人、何者かと思うのだろう。
「どこからですか?」
「東京です」
「今どきは、なんでも東京ですかね。人口も経済も。。。東京中心という感じで、ここなんかと比べたら・・」
という話が始まる。決して、東京をほめている感じではない。
そしてこの教会にひとりでやってきているせいか、
「クリスチャン?」
とも聞かれる。そう、長崎のクリスチャンの方で年配の方は、なぜか会話の最初にこのことを
聞かれることが多い。
「いいえ、でも、キリスト教文化や歴史には興味があります・・」
と答える。そう、クリスチャンと答えれば、すぐ仲間意識が芽生えるのだろう、これも潜伏時代の
名残かもしれないととっさに思った。
でも、仲間ではないということがわかると、少しだけ距離をおいたような感じも・・。
「最近は、クリスチャンは世界的にも、ここらへんでも減っているんですよ。
高齢化社会で若いものはおらんし・・。それと、物質世界が豊かになりすぎて、心の豊かさを
考えない時代になってきているんですわ。
この世が恵まれているから、あの世のことなんか考えん・・。」
「つらいことが多かったり、苦しいことが多いと、信仰心というのは芽生えるものですかね?」
「そうかもしれませんな~~」
この初老の男性は、昔は神父を目指し、神学も学ばれた時代もあったとか・・。

長崎には開かれた歴史がある。フランシスコザビエルのおかげであり、地理的な条件も
整っていた。
だから、海外から入ってきた文化や宗教を受け入れることがたやすかった。
しかし、苦難の歴史もある。
この苦しみや悲しさを乗り越えるために、先に取り入れたキリスト教の信仰が役に立ったのだ。
(しかし、弾圧されてしまうので、役立ったことが良かったのかどうかは・・・)

いずれにせよ、貧困や苦悩のなか、祈ることが幸せへの道であった。
(その様子は、映画「沈黙」の中にも少し出てくる)

その歴史を乗り越え、先祖代々生きてきた長崎の人たちに出会い、
言葉を交わすと、東京では出会えない経験が生まれる、
人間は・・・何か。を考えるには、長崎は私にとって、最良かつ最高の学校である。

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