最近気づいたことがある。
キリスト教の教会は基本的に、祈りの場としての教会であり、信者のための
祈りの場。一般に公開される時間もあるが、
祈りの時間には、扉を閉じ、関係者は入れない。
またそんなときには、一般の人間はそこには足を踏み入れることができない。
信者のための宗教。
一方、日本の神社は、基本的にオープンスペースという印象。
祠自体には、もちろん入れないけれども、いつ手を合わせにいっても
怒られない。
京都の祇園神社などは、夜、飲んだ後にお参りにいくというのも
日常的な場面であった。
そして、誰でも彼でも日本の神様は受け入れてくれているような
おおらかさがあると、感じる。
それに比べると、
キリスト教の神は少し厳格であり、信じた人が救われると、
少し排他的な面もある。
以前、近所の神社に厄払いに伺ったとき
「どうぞどうぞ、雨のなかをようこそ、おいでになりました」
と、ちょっとおもてなしされてしまい、日本の神社って面白いと感じた次第。
いろいろ聞かれない。訪れる者を拒まない。
閉じれば閉じるほど、外から見ればよくわからないので、よけいな想像もしてしまう。
もしも、キリスト教がもっともっと権威的でなく、フラットな敷居の低い宗教で
あったならば、今の宗教戦争はどうなっていたか・・。
日本人の宗教心は曖昧かつ、中途半端なところもあり、首をかしげたくなるところも
あるが、開かれている点は、すばらしい。
ハロウィンもクリスマスもなんでも楽しんでしまう日本人。
もしかしたら、開かれた神さんのおかげで、何でも
受け入れることができているのかも・・。
うーん、日本の神さんたちは偉大だ。