パラリンピックがはじまった。
その時期に合わせてか、障がい者をテーマとした話題が多い。
メディアが挙って取り上げようとしている。
その時期に関係なく、
障がい者と一体となり、普通に生きている人からすれば
どんな感じだろうか。
今だけじゃなく、ずっと意識する。
今だけ取り上げることで特別視するのではなく、
ずっと見守る、ずっと助け合う、ずっと尊敬しあうことが
大切なことだ。
確かにハンディを持ちながら、自らの限界に挑戦している
人々の姿は、健康な体をもつアスリートの努力以上に
感動する。よくできるな、凄い!と思い、何もできない
自分が思わず恥ずかしくなったりもする。
でも、自分もいつそんな傷害をもつかもしれないので
他人事ではなく、
自分はどんな事態になってもがんばれるか!と
自らを問うのに、パラリンピック観戦はいい勉強の機会だ。
傷害あっても、なくても人間は同じなんだと
つくづく思えてくる・・。
パラリンピック・・。これ、オリンピックとして
一緒にやればいいのではないだろうか。
と、実は、ずっと思っている。
同じ会場でやる、同じ競技もあるならば、
同じ括りのなかで、やれば一般の人に障がい者の
皆さんが奮闘する姿も見てもらう機会になるし
勇気をもらえるのではないだろうか?
みんなあわせて、オリンピックでいいのでは?
なぜ、開会式を何度もやるのかな。
なぜ、そもそも分けるのかな?
そこからして、差別的ではないのかな?
と思いながら、
パラリンピックをオリンピックと違う次元で
特別なこととして見ている、関係者の見識が気になる。
さらに、ロシアの選手はパラリンピックに
参加できず、自国で自国の選手だけの大会に
参加している。
どこかやりきれない。真面目に取り組む選手には
罪はない・・。
これも考えさせられる光景だ。
言葉ではない、見せかけではない、
普通の共生が実現できる社会を目指したい。