「解は、ひとつではないこと」の難しさと楽しさ

いわゆる理系の世界=数字を扱う世界は「正解」がある。
正しい解というのは、ただひとつ。難解な数式はもはや何十年も接することもなく
もう説くことはできない・・。であるがその世界には、ただひとつの正解がある。

また、この社会においても、道徳的なルールや常識について、「〇✕」がある。
やっていいこと、悪いこと。がある。
しかし、その基準はかなり細かく決めておかないと、
人によって判断基準がずれることもある。

そして文章の世界や芸術の世界。
これは正解というものがなく、〇✕もなく、
その評価が人間の感性であるから、どれがいい、悪いという評価は
大変難しい。
賞をとるといっても、その理由がわかったようなわからないような・・
という不可解な世界。
評論家という仕事をする人は客観的にその作品を紐解くが、
それでも最後はその人の感性で作品を評価しているように感じる。g

いろんなモノ書きのプロたちの講座を受けながら
正解がない世界で、「モノを追求すること」の難しさを感じ始めている。
この世にはいろんな作家がそれを生業としているが、
どの人が凄いか凄くないかは人それぞれの好みになる。
だから、どんなに偉い、売れているといわれても
その作家の文章が好きになれるとは限らない。
正解がない世界だから、感性で表現され、感性で受容される世界だから
頭でこれはいいのだから・・ということが難しい。

結局は、自分がいいと思う作品に習う、それをかいた作家に習う
ということになるのだろう。

私が目指したい「書く」という行為は、
「文学」なんていえる高尚な世界ではないが、
それでも、
言葉の技術と感性で、読者の心に響く
メッセージを届けなければならない。
この両輪、まだまだ磨きが足りない。
最後は、自分流を作れるところまで行かねば・・。

正解がない世界をすすむことの難しさは、
人生そのものと同じ。
難しいけれど、楽しく、やりがいもある。

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