初盆。お見送りは明るく、笑って。

自分のこれまでの人生で、長崎の精霊流しほど、初盆を意識する行事はなかった。
お盆は1年に一度故人が帰るといわれるこの期間、お供えをもって迎えもてなし、祈り、しずかに
送り出すという仏教行事である。そのもてなし、お供え、送り方はさまざまであり
大変に地域性豊かな行事。地域によっては、盆踊り、夏祭り、日本でもお盆の締めくくりとして
京都の「送り火」はあまりにも有名であり、死者をおくるとともに、夏をおくる・・そんな
季節のクライマックス的な風物詩になっている。

そして、長崎の「精霊流し」。初めてみたときには、さだまさしの名曲とあまりにもイメージが
違い、パワフルでちゃんぽん的な行事で驚いたが、それゆえにより一層、心に刻み込まれた。
なんといっても、爆竹とかなり高音の鐘の音が強烈だ。中華街のパレードかと思うほど。
派手に華やかに死者を送り出すという、アジア的な行事・・。その反面、その明るさに隠された
寂しさや悲しさを感じ、泣きながらでも元気に拍手で送らねば・・なんていう複雑な気持ちに
なってしまう。
彼岸へ向け、うまく旅立ちができるようにと、まさに死者の船出を見送る行事・・。
14日から、長崎各地では、この精霊船をみかけた。各家庭で、各町内で作られている。
作られた船たちは路地や公園などに置かれ、本番を待つ。西方に行けるようにと、
船には「西方丸」と必ず書かれている。
デザインもサイズもいろいろである。近年は作る家庭も減り、大きな船を流す人も減少しているが、この習慣が続いているのが素晴らしい。原爆投下された71年前のその日も、この行事は執り行われていたそうだ・・。

初盆。
この1年で自分の周りで亡くなった人たちのことを思う。
そのことと、目の前の精霊流しが重なる。
言葉にならない思いが、まだ残っているが、
この日に改めて、手を合わせ、彼や彼女が
良い旅立ちができるようにと祈る。
もちろん私のなかには、ずっと生き続けている・・・この感覚は
変わらない。

この世とあの世。
此岸と彼岸。
これを生きている人間がより意識するためには、海や川は
諦めがつきやすい境界線であるかもしれない。

今年もしめやかに、お盆行事が各地で繰り広げられるが
長崎のそれは、どこかしら陽気で明るさもあり、
根っからの人思い、の町なのかもしれない。

精霊流し

精霊流し3

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