改札はわくわく、切なく、そして・・。

駅や空港が好きだ、子供のころから移動が多い生活だったせいか、駅の思い出は尽きない。いろんな人が行き来するのを見ながら、あれこれ想像するのは発想力の練習にもなる。
身近なところでは、地下鉄やJRの改札。改札での待ち合わせ。とくに別れは、歌ができそうな雰囲気がある。
田舎のことを思い出せば、岐阜駅の改札。何時の電車と言ってないのに、母親が迎えに来ている。今も同じだ。
私自身も、相方が電車で移動してくるとなれば、駅に迎えに行く。
改札で改まって待ち合わせというのは、今か今かと待つ瞬間がちょっとドラマチックな感じだ。

一方、都内で人と会う。それぞれ違う地下鉄を利用するので、多くの場合は会っていた店の前や、向かう方向が変わるところで、「それじゃ」と言って別れる。
が、都内で会っているのに、わざわざ私が乗る地下鉄の改札まで一緒についてきてくれる人がいる。
新宿三丁目で会い、彼女は丸の内線、私は都営新宿線。だから新宿三丁目でそのまま別れれば、彼女はそのまま地下鉄に乗れるのに、「じゃ」といったのに、「いい。もっと一緒に行く。マーサさんの改札まで送っていく」といって自分の乗り場からどんどん離れていくのだ。
思い起こせば、彼女は前回もそうだった。なぜか改札までついてきてくれるのだ。7年前に東京に出てきた。実はその前から知っている。もう10年以上のつきあいで、年の離れた妹のような存在だ。またすぐに会えるし、近くにいるのに改札までついてきてくれる。ずっと話していた。ずっとずっと。

あっという間に私が乗る地下鉄の改札に着いた。「丸の内線から離れてしまったよ。わざわざありがとうね。」と言って握手をして、私はSUICAをタッチ。そこから見えなくなるまで何度も手を振った。
改札での別れって、なんか切なく、なんだか寂しい。

そう20年ほどだったか、ある人と改札での別れが永遠の別れになったことがあったから、よけいにそう思えてしまうのだ。

もちろん、この丸の内線の妹さんとは、まさか、永遠の別れにはならない。
またそのうち、会うだろう。

神楽坂の駅に着く。改札。いつも誰かが誰かを待っている。
やっぱり歌ができそうだ。

カテゴリー: Essay (Word) パーマリンク