伊東マンショに遭う

ザビエルさんのおかげで、400年以上昔の日本と欧州との交流に興味をもつようになった。ザビエルが日本にもたらしたキリスト教。ザビエルが亡くなった後も、宣教師が来日し、国内でのキリスト教は広まった。大分の大村宗麟などキリシタン大名の存在もその布教活動に拍車をかけた。そしてそのキリシタン大名の名代として4人の少年たちが長崎の大村から出航し、中国・インド・ポルトガル・スペインを経てイタリアにたどり着き、そして時のローマ法王グレコリウス13世と謁見した。それは天正遣欧少年使節として知られている。ザビエルとは逆回りの大航海をした少年たち。16世紀の後半の出来事だ。400年以上前に、日本を出て欧州文化を見聞した彼らはどんな経験をしたのだろうか。と大変興味深いが、そのなかの一人、大友宗麟の名代として派遣された伊東マンショの肖像画がこのたび上野の国立博物館で初公開された。イタリアと日本の国交樹立150周年記念とのことでの快挙であるが、この少年使節は最初の日伊交流の懸け橋でもあったわけだ。
さて、その伊東マンショの肖像画を見に行く。長崎でも大分でも見ることがなかった貴重な作品だ。当時20歳に満たないマンショ。イタリア訪問中のため、洋装である。凛々しく、大変賢そうなハンサムボーイ。真正面ではなく少し斜めからの視線はいかにも西洋画のスタイルだ。彼はキリスト教を理解するだけでなく、言語も達者であったろうから、宗麟の保護のもと、かなり勉強をされたに違いない。とにかく、レンブラントが描く肖像画を想起するほどのすばらしい肖像画だ。実は以前、この少年使節のなかの一人の絵を見たことがあった。それは千々石ミゲル。彼は帰国後、禁教時代に入り、長崎の西坂で火あぶりにされ殉死した。見たのは彫刻家の船越保武氏が二十六聖人の作品を彫る際に描かれたスケッチ。なんとも悲痛な、でも神を信じる強い意志が感じられる純粋な表情であった。それとは対照的なこのたびのマンショーの肖像画。お国変われば、時代変わればこんなにも・・・という事例のひとつだ。同じ少年使節団で活躍した二人が、違った歴史を後世の私たちに見せてくれている。
マンショの肖像画。ずっと目に焼き付いて離れない。勇気をもち、行動をし、いち早く海外に出て、世界を見た少年。1枚の絵が歴史的ドラマの玄関になる。またもやありがたいタイムトリップをさせてもらった。

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