誰もが経験しうる「障害時」と「障がい者」

身体のどこかに不具合がある、調子が悪いときがある。・・・仕事に支障があるときもたまにはあるだろう。そんなときは、まさに障害時である。五体満足のときと同じように行動・動作ができないのは、不便であり苦痛であり・・・。今の私はまさにそうだ。早くその苦しさから抜け出て、日常生活をおくるために、治療をしたり、リハビリをするわけだ。それで回復すれば大変ありがたいが、そうならないことも覚悟しなければならないこともある。痛いまま、歩けないまま・・・五体満足ではない状態が続くと、人はその障害をもつ人を「障がい者」として区分する。しかし、よく考えてみたら、人は誰でも障害を持ち得るし、その時間が長い場合もあるし、ずっとそのまま生きなければならないこともあるが、そういった障害を持ちながらもそれを乗り越え、がんばっている人々が、元気な人と線引きされてしまうのは、本当は違うのではないか?多少の障害は誰でももっている。区分けしたり、特別な目を向ける前に、自分の前にいる人が何か困っていないか?という目で周囲を見渡せるようになれば、健常者と障害者と分けるのではなく、目の前にいるその人が困っていれば助ければよいだけの話で、その方がかえって自然だ。乗り物でも特別な席が用意されているが、そんなものはなくても、気づき、席を譲ってあげればそれでいい。ここでも形から入ろうとする日本人の癖が出ている。いつでもだれでも障害をもつ可能性があるし、障害時を経験する。どうぞ、障害という苦痛と、社会の線引きに使うのではなく、誰でも障がい者になりうるという視点で世の中を見てほしい。無意識のうちに健常者ぶってその目線になっている・・ことがあれば、その目をもっている己こそが、正しく世の中を見ることができない障がい者かも・・。自分が痛い目にあうと、人は気づけることがある。でも、手が痛い。人はいろんな苦痛とともに生きている。

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