定点観察を楽しみ、一緒に笑う。

気が付けば、こまめに田舎の実家には寄るようにしている。仕事やいろんな用事も兼ねて、寄るようにする。そう、ここ数年は1か月か1か月半に一度は両親と接しているだろう。おかげさまで、元気すぎるぐらい元気で・・でも、年齢的に車の運転もちょっと心配になり、頭の方も大丈夫かとついつい気にする。会ってみればすこぶる元気でノープログレム。離れて住んでいるから余計に気になるのだと人からは言われる。しかし、毎日一緒だと、もしかしたら変化に気付かないかもしれず、たまに会うことで小さな変化も見つけることもあるのかもしれないから・・・。いずれにせよ、老いる親の状況を見守り、応援することは子供の当然の役割となる。思い起こせば、昨年まではもめごとの種もあり、常に口論も絶えなかったが、ここんところ、それらも解決してか、親子の関係も良好だ。

帰省しての楽しみのひとつは「荷造り」だ。田舎から東京へ野菜やいろいろなものを箱詰めして、東京のわが家に送るため宅配便に出そうとする。箱詰めは得意だ。どんどん入れる野菜などをもってくるのは母、「まだ入る、まだいける」と、調子にのって箱に入れるのは私、そして最後の荷造りは父という分担。そしてその箱詰めされた段ボールを車まで運ぶときは父はすでにそこにいないため、母と私で大きな箱を運ぶはめになる。しかし、今、腱鞘炎である自分の腕は重いものを持てない。力が入らずすぐ落としそうになる。すると77歳の母がどこからそんな力が沸くのかと思うほどに、その箱をひとりで運ぼうとする。私も持とうとするが力が入らず段ボールを地面に落としそうになる。しかも雨が降り始め、地面に落とすわけにはいかない。というパニック状態なのに、こんな重い箱を持とうとしても力が入らない間抜けな娘である自分と、かぼそいくせにその箱を持ち上げる老婆の母の光景がおかしくて、なんだか笑えてきた。するともっと力が入らない。母もつられて笑う。「なんや、箱落ちてしまうやんか~。しっかり持て~」と言いながらも笑い続ける。無事にその箱は、翌日東京に届く。その重い箱をひとりで開封しながら、昨日の笑えた場面を思い出す。そして、ひとりでまた笑う。おかんはすごいな~。あんなところで力が出るんだな~。でもその必死さがおかしかったな~。と

こんな小さな出来事が、人生にとっては大切な思い出になるのだろう。親の定点観測は、定期的に顔を見て、何かを一緒にすること。健康状態を見ることはもちろんであるが、それ以上にいい思い出をたくさん作る。。。そんなことが、できる限り、長くできるといい。

それにしても、重すぎて笑うしかなかった段ボールには感謝の野菜がてんこもりだ。この重さは愛の重さに匹敵している。

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