人の痛みがホントにわかるのは、自分も痛い時。

50余年も走り続けていれば、いつも移動生活をしていれば、重い荷物を持ち続けていれば、パソコンのキーボード打ち続けていれば、スマホや携帯ばかり見ていれば・・・そりゃ、何もしない暮らしに比すれば使った分だけ体が痛んでくる。すり減るというか、摩耗するというか、機械でも長年使えば痛んでくる。それと同じこと。むしろ50年生きるということはこういうことか。と、命あるものの自然現象にも納得がいく今日このごろ。途中で生きることをやめることもできないから、ずっと生きなければならないから、適度に休みながらということも大切だということもわかってきたお年頃。

とくに最近、腱鞘炎なるやっかいなものに久しぶりになった模様。医師はとにかく安静とおっしゃるが、手首、利き腕をつかわないで生活はできないから、ついつい・・・動かして、また「いたたっ」という目に遭う。

痛くて目が覚める。サポーターをしようが、薬を飲もうが、湿布をしようが、痛い時は痛い。

ふと、現在がん治療をされている知り合いや何か月も足を患っている仲間のことが浮かぶ。抗がん剤治療はかなり苦しいとのこと。足が痛くて歩けないとのこと。そう、それらの痛みに比べれば私の痛みなんて!まったく大したことはない。でも痛いものは痛い。痛くない状態、健康体というのは当たり前のようでそうではないということを痛感する。痛みというのは、体のサイン。身体が何かと闘っている状態だ。こういうときに病で戦っておられる方のつらさを思い、戦い続けておられて本当に偉いなと頭が下がり、ついついお見舞いメールをする。すると「あなたこそ、お大事に」と逆にお見舞いされてしまう。いや、腱鞘炎ごときですみませんという感じだ。

自分も少しは痛い目にあうと、痛みに苦しむ人の気持ちも少しわかってくる。

できる限り、自己治癒力で、自分の力で改善できるように鍛えなければと思うこの頃の私。本当は痛くても笑っていられるぐらいの人になりたい。うーん、芸人さんはやっぱりすごい。でも、やっぱり痛いよりは痛くない方がもちろんいいから、芸を磨く前に、まずは自分のケアから。

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