母親がこの春、胃がんの手術をした際、そのとき気弱になっていた母親を支えてくれていたのは、彼女の大切な「友達」だった。子供たちが近くにいない分、母は母で友達をつくり、日々助け合って楽しく過ごしてきた。だから、入院のときもその友達が付き添ってくれるから大丈夫!というほどに親しくしていた。そして病室で母親と二人きりになった時、彼女はぼそりと「やっぱり、友達やな~」としみじみつぶやいたのを今も忘れない。私がこうして好き勝手な日々を送ってこられたのも、このお友達のおかげなのかもしれない。そして、母はそうした仲間の励ましや応援があり、奇跡的な回復を遂げ、手術前と変わらぬ元気さで生きている。
その友達がつい最近、亡くなった。亡くなる2週間ほど前だったか、母は「友達が肝臓がんで入院している。『会いたい』って言ってくれているので、病院へいってくるわ。」と話していた。見舞いをし、励ましてきたのだろう。そして亡くなった翌朝のメールに「昨日、友達が亡くなりました。さびしい。いつもライブのときもアッシー君してくれて、いつも野菜もらって助かってました・・・」とあり、なんとも言えない気持ちになった。
母は自分が手術し見舞ってもらったとき、こんな日が来ることは想像していなかったのではないか。自分が先に逝くのではぐらい思っていたかもしれない。実際には自分は元気になったけれど、友達が先に逝ってしまった。悲しげなメールをみて母にすぐ電話し、「元気ださなあかんよ」といい「わかっとる」と言ったものの、母の心情を察するとたまらなくなった。高齢化社会・・・。友達と仲良く、地域でみんなで楽しく長生きしているけれど、それでも順番にお迎えがきてしまう。親子の別れも考えたくないけれど、家族ではカバーできない部分を支えてくれる「友達」の存在は年寄りになればなるほど大きく、かけがえがないはず。ここのところ、母の寂しさやショックを思い出してはやりきれない気持ちになる。年を重ねたら、親しい人との訣別はどのように整理できるのだろうか?あるいは整理はできないのではないだろうか?生きていることがさびしくなるのではないだろうか?いや、その人の分まで頑張って生きよう!ときっと母親は思っていてくれるに違いない。
「母の友達」の存在。その方にお礼を言えなかったのが心残り。今年のライブでお会いできないのも、大変残念・・。母親の良き友達でいてくださったことに心から感謝し、心からご冥福をお祈りしたい。
「大切な友達」との別れ
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