ある落語家が、落語含めた演芸の業界の子弟制度について話をされていた。プロの落語家になるには、必ず師匠の下に弟子入りをして、芸事のみならず、その師匠の生き方も同時に学び、そしていつしか自立する・・。昔から、上司と部下という関係よりも、先生と生徒というよりも、師匠と弟子という関係には惹かれるところがあった。先日の本ブログでは、習い事はどうも苦手とか書いているが、この弟子入りというのは、習い事の域を超えた、もっと人生を賭けた入門!であり、覚悟のいる決断であるからまったく違うものだ。
師匠がいると目標ができる。ただ、職業によっては生き方によっては、この落語界のようなわけにいかない場合もある。簡単に弟子入りができるものではない。
たとえば私自身の場合も、この人みたいになりたい・・と思うお手本的存在は、複数のジャンルにまたがるため、またもう亡くなられた方だったりすると、実際に弟子入りができるわけもない。
そこで、冒頭に書いた落語家の方の提案が気に入った。「心の師匠」をもつという試み。
勝手にこの人が師匠だと思い込み、その人の行動、考えを一方的に学び、また自分の中で、師匠と対話すればよいのだ。師匠はこのときどう言われるだろうか?・・・という具合に。そう思い込むだけでも、かなり背筋も伸び、成長できるのでは?
実際に誰かに教えていただかなくても、本もあれば、いろんな教材がある。それで十分、心の弟子入りができる。マザーテレサのような存在になりたい。この現世まみれの私が言うとおかしいが、実際にそんな風に思う。歌ならばピアフか、作曲ならば・・・。とにかくいろんな心の師匠の存在は大きい。
心にいろんなお手本を思い描きながら、自分を高めていけるのは幸せなこと。
落ち込みそうなときに、心の師匠が励ましてくれることもはずだ。
心の師匠の存在。
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