笑いの「ただいま戦争中」中継。

いつ別れが来るかわからない人生。だから、できるときにやれることを即実行。
親孝行も然り。何をやっても、親が生み、育ててくれたということに完全に報いることはできない。
まだまだお返ししきれていない・・と思うばかりだ。
最近は、苦労なくぼけることなく、楽しく元気に長生きしてくれたらと思うのみ。
その苦労を取り去るのも、子供の仕事かと思うようになった。
おかげさまで、わが両親は世の中の同世代の夫婦の皆さんと比しても、おそらく元気いっぱいな方だろう。その元気さゆえ、夫婦喧嘩も半端ない、容赦ない、言葉の体当たり。
その現場にたまたま出くわしてしまうときは悲惨だ。内容はたわいもないこと。であるが、言葉尻をいちいち喧嘩のネタにしているのだ。とても他人様には見せられない、デスマッチ!まさに対決だ。
最初はこちらも仲裁役に入るのであるが、今度は私の言葉尻に「おまえもやなー、だいたい・・・」
と過去のちょっとしたことを思い出してか父が私に向かってくる。
とにかく、すごい様だ。窓が空いていれば通行人の方がびっくりして、警察に通報するのではないかと思う勢いだ。私はふと、意味もない、こんな喧嘩にパワーを割いている両親の対決の様子を見て、ふと涙がこぼれた。あほらしい、ばかばかしい、情けない。なんなんだ、この動物的な夫婦は。こんなのが自分の親かと・・。
すると、今度母が、「ほれみろ、娘が泣いとるやいか、おまえのせいで。」と父に食らいつく。
いや、私が泣いているのは父のことではなく、この両親の無駄なパワー全開の喧嘩が情けないからなのに・・、いつしか違うネタに飛び火している。
そして、かなり言い合ったあと、言うこともなくなってきたようなので、「もう、出かけるよ」と言葉をかけ、喧嘩は終わった。
無駄な時間、でもこれが夫婦のコミュニケーションか。リクレーションタイムか?
その後、何もなかったように三人で喫茶店でコーヒーを飲む。
岐阜では喫茶店という存在は、大変重要だ。家族コミュニケーションの潤滑油になってくれる。
口を聞けば戦争になるならば、じゃ、二人で筆談すれば?など冗談も言いつつ、ここのコーヒーはおいしいだと、どうのこうの・・・そして岐阜駅で別れる。心なしかそのシニアバトルはスポーツの後のように、二人ともすっきりしていた感じだ。・

こんな戦争ならいい。我慢のない素手のコミュニケーション。これもいい。一呼吸おかない方式だ。
親たちの戦争を帰り道思い出しながら、ひとり爆笑する。
こんな夫婦喧嘩を見届けるのも親孝行のひとつか。
子供のころの夫婦喧嘩も、きっと「昌子が泣いとるやないかあ。おまえのせいで」とかやっていたんだろう。
コトバをうまく操れなくても、口下手であってもなんでもいい。喧嘩できるだけ元気、喧嘩できるだけ平和ということだ。
ああ、親孝行はいろんな意味で、疲弊するが、これもおつとめ。

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