昨年から絶対に長崎市でコンサートをするんだ!と心に決め、本格的に場所探しをしていた。
何度か長崎を訪問していたが、4月2日の朝だったか、新潟からわざわざ長崎訪問してこられるとある社長さんとの待ち合わせのため、長崎駅に向かうとき、宿泊先のホテルのエレベータでたまたま乗り合わせたのが、あの山田洋次監督とスタッフらしき青年。
いきなり密室でそんな著名な方とのち合わせるとはびっくり。うりふたつに見えるがご本人かな?さすがに声をかけることはせず、勝手にどきどきしていた。その二人はエレベータから降りたあと、そのままホテル前からワゴン車に乗られ、出発された。
きっと監督に違いない、長崎でロケかな・・。あまりに普通で自然体でテレビで拝見するそのままのお姿に絶対本人だと確信しながら、なんだかわくわくしながらそのまま新潟の社長さんと合流、長崎の原爆ホーム訪問、被爆者の方にお会いしたり、その後コンサート会場探しに奔走し・・・そしていつの間にか、そんな瞬間のサプライズのこともしばらく忘れていた。
そしてその後、何か月かしてから、山田監督の指揮により、終戦70年、松竹120年を記念した長崎を舞台にした、大型の作品が完成したということを知る。それが現在上映中の、「母と暮らせば」である。
あの春にお見かけしたときは、きっと監督はこの作品づくりのため、長崎に来られていたのだと思ってはいたが、この大作だったとは。
と、エレヴェータでの勝手なご縁があったもの、惨すぎる原爆をテーマにしたその作品を積極的に観る勇気もなかった・・。
しかし来る1月25日長崎でコンサートをやるにあたり、いろんな長崎を自分の中にもっとれておく必要があると思い出し、映画館に向かい、そしてその作品を観た。
約二時間。最初から涙がとまらない、映画を見てこんなに泣いたのは久しぶりだ。そうだ、長崎の原爆資料館へ行ったときもずっと泣いてしまう。言葉にならない悲しみでいっぱいになる。その感情と同じものがこみ上げてきた。戦争が巻き起こした恐ろしい現実は、さまざまな人々のかけがえのない人生を瞬時に踏みにじるだけでなく、その影響は今日にまでおよび・・・しかもそのあってはならない惨い歴史は70年という時間のなかで風化してしまう。そんなタイミングに誕生した作品なのだ。
そしてあの場所、あの角度、あの教会の屋根・・と自分にとって記憶に新しい場所がところどころに登場し、悲劇のリアリティを実感もした。
山田監督はこの作品にどんな思いを・・・?とあれこれ私なりにあれこれ考えてみる。とても簡単に言葉にできないが、この悲しい現実を忘れてはいけない。風化させてはいけないという強いメッセージを確かに受け取ったということは間違いない。
あのエレベータでお会いした日の朝、監督は何を思い、どこへロケに出かけられたのだろうか。
映画監督という仕事は大変な仕事であるが、思いを作品にする!究極の芸術であり、何よりも強いメッセージを発信できる総合的な芸術、コミュニケーションツール、メディアであることを改めて知り、作品以上にその仕事ぶりに感動する。
長崎・・・映画を観て改めて、この町をもっともっと大切にしたいと思った。
吉永小百合さん、改めて素晴らしい女優だ。昭和という時代がどんどん遠くなっていくが、監督や女優のこの素晴らしい仕事を風化させてはいけない。山田監督の背中を、今改めて思い出す。
エレベータで見かけた監督の背中
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