今年と来年は隣り合わせで、連続しているから、人間が暦を考えだしていなければ、新年という発想はない。が、実際には人間は暦に沿って、1年というサイクルを何十回も生きつづけていることになる。節目がなければ、人生はただむやみに長いだけで退屈なモノになってしまうのかもしれない。暦を考えだした人はグレゴリウスさんだったか大したものだと改めて思う。
そして、その年の瀬・・・まもなく新年を迎えるにあたり、どうせなら心身ともに新しく生きはじめたいと思う人は、来年の目標や計画を考え始めているはずだ。
私も今しばらくのばたばた時間が過ぎたあと、次への道を模索している。
そんななか、あるチェリストのインタビューを聞き、考えさせられた。
音楽を愛し、音楽と向かい合うことで、音楽家「としての」生き方がみつかる・・。
その一言は大変美しく、重い。
そう、私は何として生きるのだろう。何として生きればよいのだろう。
最終的には、「今尾昌子」として生きて、死ぬ。そのために、何かをやりながら生きていかねばならない・・・。今、自分にもっとも自然で適切でふさわしい私なりの「〇〇として」を考え続けている。答えはもうそろそろ見えてきているが・・。
新年という節目を生かすために、普段考えないことに頭を使ったり、心を動かすことは有効だ。
「〇〇として」生きる
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