神様にお詫び

子供のころ、信仰心はほとんどなかった。なぜ信じなければならないか、祈るのかの理由がわかっていなかった。わからないで祈る、お参りするのが納得できなかった・・。祈ればなんとかなるという神頼みをするのはおかしい、まず自分で努力するべきだ・・とか生意気なことを思っていたこともあった。まだまだ世間知らずだったのだとも今になれば思ったりもする。一方、年末はクリスマスで大晦日は仏教で・・お正月は神道で・・・そんなのおかしいと思っていた。でもそれが日本人的な信仰であることもだんだん理解した。
そして、大人になるにつれ、特定の信仰はないけれど、周囲に、すべての存在に感謝の念は芽生えてきたように思うし、困ったときの神頼みという気持ちもわかるようになったきた。そして神的なものに対しての理解もある程度できるようになった。どんな種類であれ、人間が神の存在を求めるようになるのかも少しわかるようになってきた。人というのはちっぽけな存在で、無力で自分だけではどうにもできないのだ。だから祈る。祈ることで救われる気持ちになる、心おだやかになる。経営者やトップに立つ人ほど、信仰心があるとも聞く。やることはすべてやって、あとはどうすることもできない。そんなとき、やはり手を合わせるのだと思う。
そして、自分が生きていることは、生かされていることだと知れば知るほど、謙虚になり、周囲のすべての力に感謝したくなる。それが祈りなのかもしれない。
ただ、世界史においては神の名のもとにおいて人間同士がいがみ合ったり、傷つけあったりすることもなくならず、世の中の神はいろいろだ。偏りすぎるのも時に問題だ。
日本人は、いろんな神様を信じることができる。多神教的である。その感覚も理解できるし、唯一の神様を信じ、その教えに導かれ生きている人々のことも否定しない。
私なりの神は自分の中にあるという考え方。自分の鏡のような存在ではないかと最近思う。
といいつつ、最近はよく手を合わせる。
手を合わせる、祈ること、お守りを身につけることで、なんだか大丈夫に思えてくる。
今日もまた私のなかの神様に祈る。「がんばりますから!よろしくお願いします」とそう唱えることで、自分自身が安定し、安心し、力が湧いてくるのだ。
私にとってはすがる相手ではなく、自分を立たせてくれている魔法の杖のような存在か。
とにかく、祈ることは謙虚になること、感謝すること。そこだけは間違っていないはず。
子供の頃、神様なんていないと思っていた自分を改めよう。神様、ごめんなさい。

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