「姓」への思いは

今、別姓について、いろいろ議論が盛り上がっている。適正な判断を、裁判所ができるのかなとも正直思っている。
当事者ではないとわからないことがある。どんなときもそうだ。
人を傷つけるとか害を与えることでない限り、人それぞれ価値観が違うことについては、権力者がその見識と経験で決めてしまうこともあるのだと思っている。
基本的に現代社会は男性社会である。女性が輝く時代をとかなんとか言おうが、リップサービスでしかないことがわかっている人も多く、ひとりの人としてどう見るかという見識がない限り、決めつけ型の、旧態依然なしくみはそうそう変わらない。
日本とはそういう社会だ。自由ではない。だから、よっぽど努力したり、はみだしていかなければ、自分らしく生きることはむつかしい。リスクなしで、自由はないということ。それはそれで、社会である以上、当たり前だろうと思う。
社会とは時の権力者が常に大衆を見て、大衆を管理して、一束ねにして、統率したいものだ。日本はとくにそんな遅れた国だ。
たまたま女に生まれた。男兄弟がいなかった。そのおかげもあってか、男以上にしっかり生きようとするしかなかった。
自立心が芽生えれば芽生えるほど、日本の結婚制度というものに疑問がわき、(結婚自体ではなく、制度に対してである)。結婚とともに女性たちが姓を変えることに違和感を覚え、なんでそんなことがふつうにできるのかと思い続けてきた。そして結婚すると、主人と奥様という呼称にも疑問があり、奥様とは絶対言われたくないな~。あなたの「ご主人は?」とも聞かれたくないな~とずっと思っていた。そして、なぜ名前が変わるのか。名は体をあらわす・・・というか、商品にはネーミングに心血を注ぐように、自分の名前だって同じはずだ。だからある日突然、姓が変わるのは違和感があった。
婿入りされ、苗字が変わった男性からは「ぼくはどういう苗字でも変わらない。」という人もいたけれど、それはその人が男性だからかもしれないし、とにかく私とは違うと思ってきた。
ということで、ずっと非婚でいつづけ、パートナーと20年以上 仲良く生きている。
私のあほなこだわりを理解してもらっていて、実は心苦しいが、やっぱり自分らしく生きるためには妥協できなかった。
というわけで、女性の社会進出に伴い、社会の問題・関心事となっているこの「別姓問題」は、いかに生きたいかという根本的な問題と深くかかわっている。ある司法書士の仲間が、私の生き方を応援したいです。とも言ってくれた。またある人は、生き方が下手ですね。とも言った。そして、わがパートナーからは「ほんとうに面倒くさい女だね」と言われ続けている。
どこまでが自分らしくなのか。そこにこだわる上で、姓の問題は、人とのかかわりが生じるため、大変むつかしくもある。
自分の価値観がある日、風がふくように変わればそれはそれでよし。
言いたいのは、どっちも選べれば、ちょっとはいい社会になる。ちょっとは女思いの社会になるのでは?ということだ。
もちろん、私は「今尾昌子」という名前がかっこいい名前かどうかは知らないけれど、唯一与えられた運命の名前だから、
これを背負って生きている。だから、好きという以上に、その名とともに在る。

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