評論家より活動家。

ウクライナの悲劇。昨日で三年。各メディアが取り上げている。
長い3年。その間、話題にならなかったことも多かった。
自分の身にふりかかることでなければ、人はずっと注目すること
はしない。他人事である。
たとえば、戦争に行かねばならなくなった息子や夫を待ち続ける
そして戦地で帰らぬ人になってしまった家族のこと・・・。
このことを思うと瞬く間に、戦争は自分事として考えることができる。

早く停戦してほしい。という声と、このまま終わっては亡くなった
人たちに申し訳ないから、勝つまで戦わなければならない。
この両極の声。自分がどの立場だったら、どちらの考えをもつだろう。

今はとにかく、もうこんなことはやめてほしい。
と思うのみ。もっていきようのない怒り、憤りがずっと心の奥にある。

たまに組まれる報道番組の特集で、この三年間で有名になった評論家も
多いと思う。
最初は、わかりやすく語ってくれるものだと感心していたが、
ずっと同じトーンで、どこか他人事のまま話している様子が気になって
きてしまった。
知識人って何だろうとも思い始めた。

何かをしましょう。しなくちゃ。これをしませんか?
戦争を終わらせるために、それぞれができることがないか?
語っているだけでは、何の解決にもならない。ということを
強く思った。

一方、語るだけでなく行動を起こしている人たちも多くおられる。
現地に赴き、人命救助をしたり、医療支援をしたり、国内でも
ウクライナの人たちを受け入れ、サポートする活動をされていたり
さまざまな寄付をしたり・・・。
活動家と呼ばれる方たちがおられる。
いのちを賭けて、真実を伝えようと発信を続けるジャーナリストたちも
いる。

少しでもお役に立てれば。
そんな優しく強い気持で、そして勇気をもって活動、行動する人たちに
目を向け、自分もできることをと思う。

他人事か自分事か。
意識の向け方の違いで、そのアウトプットは変わると思う。

3年の節目。ここからさらにどっちへ進むのか。
不安要素が多すぎるが、得やすい情報に惑わされず、世界をしっかり
みつめ、自分ができることをしていきたい。
たとえ、それがささやかな寄付であったり、平和を願い歌を歌う活動で
あっても、誰かに同じ気持ちを抱いてもらえたり、その思いが伝わり、
じんわり広がれば意味がある。

黒いひまわりではなく、黄色いひまわりが広がる美しい世界がまた
見られるように・・・。


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