東京ライブの前日、近所のスタジオの小部屋に籠り、指ならしと声出しをする。地下という閉塞感もあるのかもしれないが、アップライトピアノに映る自分の指を見て、ふと「紙鍵盤の時代」が頭によぎり、手が止まる。
浪人後、親と喧嘩して音楽を一切捨てて、京都に移り住み、音楽と関係ない生活が始まったあの頃。意地でも自立せねば、昼間フルタイムで働き、夜大学へ通った。結果的にとてもよかった。おとといノーベル賞を受賞された先生が感じられたのと、同じだ。1日働いてからそれでも大学で学ぶ。真剣勝負の人たちに囲まれての大学時代・・。と、その話はおいといて・・・音楽を捨てた学生生活の始まりに、四条河原町の十字屋という楽器屋で、「紙の鍵盤」をみつけ購入した。88鍵盤ついているものだ。いくらしたのだろう?そんなに高いモノじゃなかった。みつけてすぐにそれを買い、ワンルームの住まいの机に広げ、時折、指の練習をしていた。音は出ない紙鍵盤。それを弾きながら、私はピアノを弾けなくなんかなりたくない、弾けるぞ、今でも弾けるんだから。という気持ちで、音の出ない紙の鍵盤の上を指を走らせた。そしてその鬱憤をはらすかのように、大学の大講堂にグランドピアノがあるのをみつけ、誰もいないときに、やたら豪快に弾きまくって、隣で授業中だったのか、先生に「今は授業中だから、ピアノ弾くのをやめてください。」と注意されたこと・・・。そんなこと、30年以上忘れていたのに、明日が東京ライブというときに小さな小部屋で紙鍵盤のことをふと思い出した。結局、ピアノは捨てたくなかったんだ。
紙鍵盤は、懐かしく。でも切ない。親も私も突っ張っていた。
鍵盤はやっぱり音が出るのがいい。と、東京ライブに向け、お客様の顔を思い浮かべながら、深呼吸。
紙でなく、生のピアノに向かえる幸せを噛み締め、今日の本番、さあ、心を込めて。
紙鍵盤の時代
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