モノというのは、その背景が見えるかどうかでまったく違う価値のものになる。
今、日本での消費形態の5%弱が、ネットによる購買だそうだが、マスコミ、ネットを介した情報を頼りに「便利」な買い方をすると、モそのものを買うということになり、それは安いとか、いつでも買えるとかの満足になる。
一方、最近商店街や、昔からあるお店、さらには農家との直接のご縁を大切にしたいという気持ちが高まり、ネットではない買い方、いただき方も増える生活をしていると、安く買った、すぐに手に入ったという喜びとは違う、心の豊かさを感じることが多い。
たとえば、新潟の農家から今年最後の枝豆がドーンと届く。そして土から掘ったばかりのさつまいもも同梱されている。箱の大きさの予想を超えた重さ。ぎっしり、ずっしり、どっさりだ。
続いて、長崎から生の栗が届く。これもずっしりだ。
注文したものだけでなく、突然の贈り物、おくりもの。売っているものはもちろん対価を払い。非売品には相当するこちら側が用意できる名品を返送し、感謝の意を伝える。
だから、時にはお金で買うだけでなく、物々交換ということもある。それも良い。昔はそうだったのだ。
いずれにしても、モノには人がいて、創る人、売る人、届ける人の思いがくっついていることを大切にしたい。
短時間に早くたくさん売ろうとすれば、ネットや量販店での売り方もいいが、ファンを創りたかったら、顔が見えるコミュニケーションがやっぱりいい。おいしさも倍増だ。
枝豆をゆでながら、その農家のご夫妻とその息子(この人が知り合いだ)のことを思い浮かべながら、ああこの人はこういう環境で育って・・・などなどいろいろ思い浮かべると、枝豆からその家族のことが見えてきて、理屈なしにありがたく、愛おしく思えてくるのだ。
モノの後ろには必ず人がいる。しかもその歴史を観れば、無数のドラマがある。
その人のことを思い、感じながら、食べたり、使ったりしながら、生活は豊かなものになっていくのだな~と思う。
(当投稿は、ネット環境の事情で、アップの時間が遅れましたこと、お詫び申し上げます)
「その人」を思い浮かべていただく、幸せ。
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