だんだんわからなくなる。

駅だったか、街角だったか、ポスターを見て、
10月14日が鉄道の日であると知った。
この日付には、敏感に反応する。
父の命日である。
先日、ある知人との会話で、「ところで誕生日はいつだった?」
とたずねたら、「10月14日ですわ」と言われ、
「へ?そうなん。じゃ、うちの父の生まれ代わりやねえ~」
「へ?もうすでに、ずっと前に生まれてますけど?」
と、笑いながら会話。
そうか。この人とはやっぱり、何かご縁があるかもしれないな。

いずれにせよ、10月14日という日は忘れていない。

ところが、何年?というのがだんだんわからなくなる。
数え年で言われる仏教の世界と、現実の年齢。
三回忌がまる2年というところあたりから、何年?というのが
だんだん怪しくなり、
だんだんそれは、もうずっと前のことだったようにも思え、
そして、どちらでも、何年でもよくなる。

それぐらい、親との別れの時は、カレンダーに刻みようのない
特別なものであり、あの1年は、人生の中で、もやがかかったような
時がとまったような、特別な時であったのだろう。

だから、心の一区切りがなくなると、だんだんわからなくなる。

という感覚も大切。

わからなくなる。それは自分が親との別れを越えて、実は分かれていない
実は一緒にいるという気持ちになっている証しかもしれない。

記憶のツボに触れると、痛いことはあるが、それ以外は、
いつも一緒にいるような感覚のまま、生きられるようになった。

亡くなってから何年・・・。数えたいときは数えたらいい。
でも、あまりその線引きをすると、悲しみが蘇りそうなので、
わからないままで、そっとしておこうか。とも思う今日この頃。

わからない・・・。この感覚も大切に生きる。
もちろん、その命日は、父との時間を大切にしたいと思っている。

もう1週間で、今年もその日がやってくる。

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