平和は祭典ではなく、日常であれ。

オリンピックも後半。
マスコミの過剰な反応を見るにつれ、早く平常モードに
戻ってほしいと思ってしまうのは、私だけか。
選手たちのがんばりは、素晴らしく、本当にえらいと思う。
ただ、国別にメダルの数を競ったり、また金メダルをとれなかった
からといって、「申し訳ない」と涙を流す選手を見ると、なんとも
複雑な気持ちになる。
スポーツって何のためにするのか?誰のためにしているのか?
すごい特別なことなのか?と、いろんな思いが入り混じる。

ある報道で興味深いことを伝えていた。
日本では、スポーツは「教育」。お国の管轄もそうである。
だから、こうしなければならない。勝たねばならない。
その道にいない人間からすると、息苦しい感じはする。
一方、アメリカでは「エンターテイメント」であり、フランスでは
「文化」であると。
なるほど、確かにと思う。

自由に自分を表現し、力を存分に発揮して、結果も出る。これが一番。
でも、何かを背負って結果を追い求めるために、歯を食いしばって・・・
というのはどうか?
自由に、自己実現、自己表現。そのための挑戦であればいいが、
何かしんどさがある。これはあくまでも自分の勝手な見方であるけれど。

一方、アーバンスポーツやイースポーツといったジャンルが注目される。
ゆるい感じもあり、またそれがスポーツ?と思う一面もあるが、
それでも障害やさまざまな壁を乗り越えて、「一緒に楽しむ」という
ところがとても良い。
そこが一番大切である。
となると、スポーツとは何か?オリンピックとは何か?
について改めて考えたくなる。

近代オリンピックの功罪については、学生時代に学んだ。衝撃であった。
それが今も続いているのかも。

また、平和の祭典といっているのに、この間も戦争が行われているのは
納得がいかない。オリンピックやっている場合か?とも思う。

なんのため?にやるのか?
世界の皆さんが、国を越えて、
仲良く楽しく、コミュニケーションをするための
ツールがスポーツである。
ただ、それだけでいい。思えてならない。

勝った負けた。
青春の一コマとみれば、それは美しい。
が、こんな大きな装置がなくても、十分に楽しめるはず。

と、毎日、どのチャンネルにも手が止まらず、早く平常にと
思ってしまう。

今日は、広島に原爆が投下された日である。
せめて、その時間に黙とうをささげる・・・オリンピックに
そんな時間が予定されているだろうか?
もちろん、一人一人がそこに気持ちを向ければよいけれど。

平和は日常であればよい。
平和は祭典でなくてよい。そんな特別なことでなくてよい。
何もなくていいから、日々、平和であるようにつとめる。
そのことが大切なのだ。
と改めて思う。
8月6日。今日は広島出身で原子力の研究を続けてきた知人と
再会する。
その方の気持ちに寄り添いたい。

改めて、平和は非日常の祭典ではなく、
あくまでも日常であってほしい。

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