あじさいと空と、マイソング。

自宅の花瓶にさしたあじさいは、遠藤周作も愛した、長崎の外海
の道の駅で入手したもの。
紫のあじさい。1本のあじさいでも、まるで花束のよう。
まさにこぼれそうな・・・。とは、マイソング「あじさい日記」
にも綴ったが、ほんとうにそんな形容詞がぴったりな花。

これを新聞紙に包んで、飛行機に乗って持ち帰った。
あじさい運び人。どんな高価な土産物よりも、そこで咲いて
いた花を持ち帰ることができるのは、とても贅沢なこと。
しかも一束165円。都会の値段とはまったく違う。

あじさいをみつけると、この季節がやってきたのだ。と、
3年前の悲しかった日々が蘇る。
でも、あじさいはその悲しみを和らげてくれる存在でもある。
1年ごとに、そのこぼれそうな花びらたちを見ながら、
癒されながら、悲しみを梅雨の雨に薄めてきた月日。
いい歌をつくれてよかった。
悲しみという感情があったから、生まれた作品。
今は、おかげで少し俯瞰してその悲しみにも向き合える。

青い空に紫の花。
そんなに晴れなくていいよ。というぐらいに
海も空も青い、外海の6月はじめ。

雨に似合うあじさいを、青空の下で
みつけてきたのはちょっと変だけれど、
外海の空は、なぜかあじさいも似合っている。

悲しみを抱き続けてきた空だからかもしれない。
だからこそ、余計に美しいのだと思う。

遠藤周作は外海の海のことをあまりに蒼いと書いていたが、
空も透き通るように青く、心洗われる。
そういえば、この長崎外海の空をおもってつくった
「そらいろワルツ」もよみがえる。

今しばらくは、2つのマイソングを鼻歌に、
長崎のあじさいを愛でながら
あの「そら」を思い出すとしよう。

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