AIとの付き合い方。

生成AIという言葉を聞き始めたとき、その日本語は何?と思ったが、
もう耳になじんできた。
そして、ネット検索すれば、すぐにそのAIくんが活躍してくれる。
たとえば、自分のことも、さもよく熟知しているかのように紹介
文を表示してくれる。へえ、今尾昌子さんて、そういう人なんだ。
すごいと思いながら、ちょっと後ずさりも・・・。

先日あるニュースキャスターがAIを使い、自分が話すニュースが
日本語ではなく中国語、フランス語で普通に自然に話されている実験
結果を見て、「ちょっと怖い感じがします」とコメントされていたが、
言葉だけでなく、話す表情も自然っぽくなっているので、確かに
怖くもあり、気持ち悪くもあった。

そう、気持ち悪い。心地悪いのだ。
と、こうやって毎日書いているブログも、AIは日々学習しているから、
記憶され、どこかで表現されてしまうのかもしれない。
恐ろしい。別にいいけれど。
自分の信念は見ている人が見ている、わかる人にわかる。であるから
フェイクなマーサが流れても、わかる人はわかると信じたい。

さて、執筆、作曲、演奏・・・。これらのクリエイティブな仕事は、
このAIの進化により、これから人間と競争になるとも言われている。
情報力、学習が瞬時にアウトプットにつながる。
便利この上ない、脳作業の外注である。

便利の渦に引き込まれていくと、人間はだんだん考えなくなる。
それは大変危険だ。
簡単に翻訳ツールがあるけれど、自分でどうだったか?と調べたり
考えたり、想像するプロセスが人間が行う学習。
AIが量と時間で勝負ならば、人間は考える、感情を不可できるところが
特徴だ。
AIには情熱はない。

と、日々、AIのことを考えると、これからの人間社会の行く末を
案じてしまう部分もあるが、活用すべきところは大いに使えば
いい。でも、「よく考えて」というのが前提になる。

AIにふりまわされて、人間がフェイクな情報に踊らされ、
間違った方向に進んだり、平和が脅かされることは断じて
避けなければならない。
そのための規定、ルールは当然必要なこと。

今、AIの企業が日本に進出している。
日本は国際的な著作権の保護に後れを取っている。
だから、自由にいろんな実験ができる市場。
規定が厳しいEUとは違うのだ。
進出されることを手放しで喜んでいる場合ではない。

いろんな意味で人が人として生きていくために、
人間社会、ひとりひとりの暮らしを守るために
情報は活用されなければならない。

便利だからいい。という時代はとっくに終わっている。
下を向いてスマホを見る人たちを電車のなかで眺めながら、
みんな、上を向いて、前を向いて!と
思わず言いたくなる。

AIを自分はどうとらえ、生かす、生かさないのか。
そして、自分はどう生きるのか。
人間が学習を止めたら、終わりだ。

前にも書いたが、AIもいいけれど
AI(アイ・愛・あい)のコミュニケーションを大切に
したい。改めて!

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