模倣の意識と創造と器。

ここんところ、デザインの模倣が問題になっている。これはネット社会の影響による社会問題のひとつかもしれないと考える。
いろんな情報を簡単に入手し、調査することができ、参考にもでき、また訴えることもできる。情報化社会でなければ、もし似ている作品が世の中のどこかにあったとしても気づくことがない。しかし現代社会では、作品は著作権において保護され、そしてその主張は正当である。が、知らなかった、まったくの偶然。ということは実は少なからずあるのではないかと思う。とくに音楽の世界においては、自分自身もいつも思う。たとえば音楽において西洋式の音階は、7つの白鍵と5つの黒鍵の合計12の鍵盤しかない。その組み合わせで曲は生まれるので、どこか似ている曲というのはあまた存在するのである。意識していなくても、聴く人が聴いたら「これ、ここの部分、○○に似ているよね」ということも大いにある。そんな限られた音の組み合わせの世界で、いかに独自のものを作り出すかは、生みの苦しみでもある。もちろん日ごろからいい作品をいっぱい聴くことは想像力のプラスになる。参考にしながら、まったく違うものを生みだすには、私の場合は自分だけのテーマ、情景を思い浮かべるということがポイントだ。この思い浮かべる世界が独自のものであれば、何の模倣にもならないはずだ。小学生のころ、エレクトーンでオリジナルの曲を作った。それはジャズのある名曲のコード進行がかっこよかったのでそれを生かして作った。すると当時の先生がそのことを「あの曲のコードと同じだよね」と少し蔑むように言った。そのとき、実は傷ついた。小学生がそんなジャズコードをオリジナルに使いこなせるわけがないというのもあったのだと思う。しかし他の曲も名曲に似ているものを使っている人もいるし、子供の作曲だ、しかも何も習っていないのに、「真似る」イコール「生かす」ことは何が悪いのだろうと思った次第。ま、それから月日は経ったし、今ならばそんなこともしないが、たくさん聴く経験が増えれば知っているものは増えるわけで無意識に一部的に参考にしている部分はどうしてもあるだろうと思う。
意識して、パクろう!というのは問題外。あるいは創造性をもち、ゼロから構築したものをやすやすをコピペし、少しごまかしのお化粧をして自分の作品と言い張るのは論外。本当に潔白であれば、最後まで正々堂々としていればいい。
また、一方で、本当に大物であれば、真似されることを許す。真似されるぐらいすごい作品なんだ。あれは私のを参考にしていますが、一緒に盛り上げましょう。なんて器の大きいアーチストがいたら、もっと尊敬する。
最近一緒にお仕事しているDVD制作の会社の社長さん、とても大きい。「早くきちんとしないと誰かにパクられますよ」と心配して言うと「パクられるということはそれだけみなさんが必要と認めてくれているということ。いいじゃないですか。多いに使ってもらって世の中に広がればいいですよ」との回答。断然、こっちが大物だと思う。私の作品であると言い争う以上に、なんだかもっと広い視野でお互いに認め合い、協調できるといい。意図してパクるのは絶対いけない、が大物はもっと違う次元で創作に向かい合っているような気がする・・・。と今は思う。私も真似されるような作品作らねば。誰もしないか?

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