オリンピック、やるのかな?と素朴な疑問

失態続きのこの準備。アルゼンチンまではるばる出かけて、「Under the Control」?とかゼスチャー交えて一生懸命プレゼンしていたあのころと今を比較するとなんだったの?と思えることばかり。何ひとつ、コントロールできていないじゃない?メインの会場も、コミュニケーションの根幹的存在であるエンブレムも・・。すべてやり直し?お金も時間もとてもじゃないが、プロとはいえないお仕事の進め方。税金でやっているのだろう?いい加減にしてほしい。デザイナーや建築家の問題だけではない。これらをとりまとめていく人たちの真剣な仕事ぶりが大問題だと思う。後追い、人のせい・・。誰が責任者ですか?不透明な妙なプロジェクト。いろいろバックがあるのではと思えてしまう。もともとオリンピックには無駄に大きい施設も要らないし、大それたマークもいらない。もっと大切な準備がある、マークとは、マークのデザインが大切というよりはそれができるプロセスがどうなのか?という点が大切だ。著名デザイナーだから大丈夫ということではなく、マークとは思いの結集であり、それを見ればみんなが夢をもてるということが大切なのだ。そしてクリアな仕事がされていれば今回のようなことにはならない。オリンピックの主役はアスリートなのに、問題が周辺から沸いてくるこの点も気になる。
こんな状態で、本当にオリンピックやるのかな?やらなくていいんじゃない?この程度だったら・・・。こういった仕事も見て、開催地を決定すればいいのでは?などなど思ってしまうのは私だけか?>オリンピックって何なんだろう?そもそも・・・が気になってくる。
もうやらなくてもいいのでは?と思うのは私だけであろうか?ああ、もったいない。
戦後オリンピックは、古代のそれとは大きく目的が変わってしまった。政治的になり、商業的になり・・。
異常気象でもあるこの地球において・・今一度、原点に立ち返り、もう加熱しないでいい。時代時代に合った終息の仕方もあるだろう。オリンピックだけではないけれど。ちょっと極論になってしまったが・・。

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