どこまで便利を追求、優先したい?

コンピュータと人間の一体化がますます加速する。時計型の端末が発売ということで、にわかに盛り上がりを見せている。アメリカ人はなんでも新しいものが好きで、それを日本人も真似するのが好きで・・、という点からはアイウォッチも日本国内でも話題になることだろう。
あるニュース番組で、ニューヨーカーにこの時計型端末に対してインタビューするのを見て、興味深く思った。「なんでも新しいものに飛びつくのはどうかと思うね」「こんな小さい世界でどうやって操作しようっていうんだ」「自分の行動が全部見られてしまい、怖い」「情報管理されるようで嫌だ」「昔は人の家に行くときでも、玄関の扉をノックして開けてもらって『こんにちは』と言ってから入ったのに、最近は端末でピピピっとやれば入れてしまう。人間味がなくなってよくないわ」と、たまたまかもしれないが、取り上げられた意見はすべて最新のウェアラブル端末に対しての反対意見ばかり。それを聞いて、ちょっと安堵。アメリカでもこういったある意味、人間的にまともな考え方が残っているのだと。今、都内の地下鉄でもバスの中でもそうだ。ほとんどの人がスマホ片手、それに見入って自分の世界。あるいはイヤホンつけて自分の世界。両耳ふさぐと周りの動きが見えないよ。視覚障害者の方がバスを降りようとされているのに、スマホ見ながらゲームをし、イヤホンして音楽聴いて、その通行の邪魔をしているのに気付かない若者をみて「そこに立っているとその方が降りられないですよ」
と思わず注意したくなってしまった。いやはや、便利なものは時に人に迷惑をかけ、自分をも苦しめることがある。一見便利なもの、時代の最先端のものに目が行きがちであるが、常に物事の両面を理解し、人も自分も困らないように自己管理していくことが必要だ。モノに拘束され、結局不幸になった・・・ということにならないように。さて、そのウェアラブル端末はどこまで支持されるだろうか?ある意味興味深い。

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