記憶に強く残ることは?

時々演奏に行く施設で会う、地元のおばあさんのことを思い出す。
その方はどうやら、母と親しかったようで、私が母の娘であるという
認識はおありのようで、会うたびに
「お母さんは本当に偉い人だった。いつもお墓にお参りにみえて、掃除を
されていて・・・。帰りにいつも寄ってくれた・・」という会話をくりかえされる。
お墓の近所に住んでおられるので、母の姿をよく見かけていたようだ。
この会話は、会うたびに初めて話すことのように話されるので、こちらも前聞いた
とは言わず、「そうですか。それはそれは」と答えることにしている。
母はもういない。ということはどうやらお分かりになっている。そして、
その母との思い出の断片をいつも話される。
よっぽど、母といえば、お墓まいり。という場面がその方の脳に焼き付いているの
だろう。
認知が進んでも、他のことを忘れても、同じことの繰り返しであっても、その方の
人生の記憶に母の存在があることは、うれしいと思う。
だから、何度同じ話を聞いても、新しい心でうけとめるようにする。

さて、年を重ねるとこういった現象は日常茶飯事になる。
いつか、自分の記憶も薄らいで、人生の一部、断片しか思い出せなくなるのかも
しれない。
そのときは、どんなことを思い出し、口に出すのだろう。
または、お世話になってきた先輩たちが高齢になられたときに、
わたしの記憶は残されるのだろうか?
そんな印象強い存在だろうか?

そんなことを思うと、覚えているということは 奇跡であるとも思えてくる。
明日は忘れてしまうこともあるかもしれない。あるだろう。
そんなことに一喜一憂せず、今日は今日、かけがえのない1日として、記憶に
残る、感動の1日になるように過ごせばよい。
丁寧に生きる、心を込めて生きる。それしかない。

人生の最後に向かうとき、生きてきたどの場面を切り取っていくのだろう。

終末の自分は、一体、何を覚えているのだろう?
そのときの自分を見ることができないのは、ちょっと残念であるが。
いい思い出であるように。楽しい思い出であるように。
と願いつつ、今日も思い出に残る、残せる1日を目指したい。

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