昨日10月14日は父の命日。まる二年が経ったことになる。
仏教の世界では三回忌と呼ぶのだそう。妹と二人だけでの法要はすでに
終えていたため、当日は静かに父のことを思い出したいと思っていた。
といっても、実はいつも思い出している。命日だから改めて思い出すと
いうことはない。
いつもずっと一緒にいるという感覚だ。
でも、特別に、父が好んで通っていた懐かしの場所に行くことで、
そのときの父のことを思い出すことができる。
父はお酒を飲むのが好きで、酔っぱらうと気が大きく、陽気になった。
(幼いときはそれが嫌いなときもあったが・・・)
なんだか幸せそうに、馴染みの店の人をからかったり、冗談を言いながら
好きな煮魚をつまみながら、焼酎を飲むのが好きだった・・・。
外食が好きな両親は、近所の飲食店に頻繁に出かけていた。
そうだ、今日はひとりで、あの店に行ってみよう。
そんなことで、両親が好きだったそのお店に、久しぶりにひとりで
足を運ぶ。実家より徒歩20分程度か。国道の脇の狭い歩道をずんずん歩いた。
両親が亡くなった頃は、コロナダメージで通常営業もままならず、ご苦労されて
いた。団体客、宴会に強いお店だったから余計に大変であった。
今は落ち着いただろうか・・。お店はにぎわっているだろうか、だといいが・・。
玄関の扉を開ける。
「ごめんください」
ガラリ玄関をあける。なんだか静かだ。人の気配が前と違う感じ。
店の奥から、ママさんがゆっくり歩きながら出てきた。
「ああ、久しぶり~。会いたかった~」
とても喜んでくださる。
コロナで営業が苦しいとき、時々電話をかけてこられた以来、である。
「今日はお父さんの命日なので、お父さんが好きだったここに来たら
喜ぶかな~と思ってきました。」
というと、いつも両親たちと来た時に座っていた席に案内してくれる。
ママさんは、母親と同じ年齢だ。まだ現役でがんばっておられる。
「もう、83歳なんよ~」
今、親が生きていたら、どうなっていただろうか?と想像した。
コロナがすべてを変えた。
親もいなくなり、そして飲食店の環境も激変した。
コロナだけでなく、さまざまな値上げが営業を圧迫している。
何もかも昔と変わった。
両親が通っていたあの頃は、お店にもにぎわいがあった。
少し静かになってしまっているお店。
BGMは昔と変わらない 琴の音。
そこに声の大きい、父と母のかけあいが聞こえてくるような
気がした。
久しぶりに東京から帰ってきた私と乾杯した父の顔が、
くっきり浮かんだ。
ああ、こんなこともあったな。ちょっと照れていたな・・・。
命日とは、その人のことを思いだして、一緒に過ごす日だと思っている。
手を合わせることも大切であるが、その偲び方は人、それぞれ。
毎日思い出しているから、毎日が命日のようなものであるが、
やはり、人生を終えた日というのは、特別な日。
命の日。命をまっとうした日。
命は限りあるもの。
寂しさは変わらないが、生きているものが、生きるのみ。を
再認識する日でもある。と思っている。
今日15日は今年の鵜飼いフィナーレ。
これも含め、私にとっては父の命日だ。
長良川の空に舞う花火と漁火を見ながら、改めて父のことを思いたい。
父につくった「やがて・・・」を橋の上で歌いながら・・。
そして、また、そのお店にも顔を出そうと思う。
父や母のことを思い出せる場所には、ずっとずっと元気に存在していてほしい。