敬老の日の翌日というわけではないと思うが、母の夢を見て、目が覚めた。
夢とは本当におかしなもので、ありえそうでありえないストーリー。
目覚めたら、まばゆい光の中のワンショットのような、一場面だけがぼんやりと頭に残りながら、フェイドアウトする。でもその母の笑顔はずっと消えないまま・・・。
会いたいのに、もう会えないというのは、なんともいえない寂しさ。これは一生変わらないのだ・・とそんなことを朝思っていたのに、忙しく動き始めると、その気持ちもフェイドアウトする。
その午後、長崎の友人からメッセージが入る。久しぶりのメールである。どうされたかな?
以前よりお聞きしていたお母さまのこと。積極的な治療は終わり、これからは自宅で緩和ケアに入られる。友人もお母さまと一緒に過ごす時間を大切にするため、実家に向かっている
ところ・・という内容・・・。そうか、そんな日がきてしまったのか。
すぐ返事をした。そしてお見舞いのお花を送ろうと思った。本当はそこに駆けつけ、出前コンサートでもしたいぐらいであるが、もうそんな状況でないかもしれず、静かに過ごされる
のが一番だ。
会えるうちに、一日でも、一時間でも、一分でも・・。長く一緒にいる時間を・・・。
母の夢があったから余計に、そう思えてならず。
「悔いのないように、過ごしてくださいね。」・・・。かける言葉もむつかしい。
最近、知人・友人のお母さまが旅立たれることが続く。
自分たちが、そういう年齢になってきたこともあるのだろう。
大切な人との別れは、考えたくない。
長崎の友がお母さまと一緒に過ごされる朝、昼、夜。
神様がいるならば、彼女たちに1分でも長い時間を与えてほしい。
と、母のぼんやりとした笑顔を思い出し、改めて思う朝。
一日でも、一時間でも、一分でも長く。
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