いつまで記憶が?

たまたま若年性認知症の患者さんご夫妻のことをとりあげた番組を
少し見た。同世代になる人でも・・・との驚きと、他人事ではないとショックが
全身を突き抜けた。
奥さんが「まだ、私のことわかる?」と繰り返し尋ねたり、日々の経験を
思い出せるように、写真を頻繁に撮り、記録に残されているご本人の様子を
見て、人の記憶の不確かさについて考えさせられた。

昔、ある映画で「人間は忘却していく存在である」と、そんな類の言葉にふれ、
そんなはずはないと思った自分がいた。若かったのだろう。
でも、今は、多くの高齢者の方に接したり、上に書いたような若年性認知症の
方に病院で出会ったり・・・いろんな経験から、少しづつ様々な現実を受け入れる
ことができるようになった。

毎朝、目覚めると、今日の自分は大丈夫だろうか?と確認する自分がいる。
昨日の記憶と、今日やらねばならないこと・・が頭の中でつながっているか?
つながっている、ああ大丈夫だ。今日も元気にがんばろう!
と、そんな感じだ。

いつまでも、心身ともにこれまでの自分がつながって存在していけたら
良いと願っている。
ただ、記憶が途切れたときは、どうなるのだろう?
と、そんなことを考える。
が、そんな日が来るかもしれないが、今は記憶があること、一応おそらく
正常であることに感謝して、今できることを精一杯しようと思う。

写真を残したりするのも良いだろう。
私の場合は、日々の経験を歌に残すこともできるだろう。

と、記憶の大切さを改めて思った次第。

「今も、私がわかる?」
なんともいえない、確認のことば。
わかる、が前提でいるから。毎日つまらないことで喧嘩したりしてはいないか。
自分の存在が認識されていることに、まずは感謝せねば。

ああ、生きるとは・・・。なんでもありだ。なんでもありに備え、しなやかに
そして、できる限り楽しく生きていきたい。

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