真のグローカリストを目指す。

「新潟県人って伝え下手でしょう。」「伝え下手というよりも、おもてなしの気持ちに賭ける県民性なのでは?」「いやいや、もともとそういうことが必要ない環境だったから、口下手で一見おもてなしが・・と思うかもしれないですけど、つきあってみるといい人が多いですよ。優しいですし・・」・・・と、たとえば新潟に通っているといろんな話が出てくる。もちろんこれは、新潟だけではなく、岐阜だって、京都だって、長崎だって、東京だって・・・それぞれの地域には地域の自然があり、歴史があり、そこで生まれた文化があり、そこに人が育ってきたのだから、言葉も違う以上に、考え方、感じ方、コミュニケーションに対する感覚が異なるのは当たり前だ。
一方、その地域性とは無関係に、ひとりひとりがもっている個性があり、それはたまたまその地域で生まれたということにせよ、同じ地域に住んでいても違う人はたくさんいる。また違う地域で生まれ、育ったのに、「共感」できる人も多くいる。人はいつも
自分のバックグラウンドと、自分自身が進み、対面する世界での経験、努力によりいかようにも変容するものだと思う。
環境、意志、才能、努力で変化するということだ。その変化の中には、地域性を越えたグローバルなモノの見方、行動も含まれると思う。
私はどこに行こうが、片目は行った場所の地元目線で、そして片目は世界目線でモノを見たいと思う。現地の方との交流も大切にしながら、至近距離だけでない応援もあるという前提で俯瞰してみつめ、関わりたいとも思っている。
この生き方がどうなのか?の答えはまだ見えてないが、こういう生き方もありだとは思っている。
グローカルとは、それぞれを大切にしながら、全体をみつめること。そしてできることをしながら、社会全体への影響も心掛けて生きることではないか。
地域性を大切に、しかし、そこにこだわりすぎず、決めつけることなく、柔軟に接していけたらいいなと思う。田舎に帰る人が多いこのシーズン、ローカルな自分に接し、いろんなことを思う人も多いのでは?

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