謝ることは難しい?

何年か前、あるマスコミ関係の人と話していて、自身が取材した報道内容についてその取材先からクレームが来て対応に追われた・・という話を聞き、何度も取材先の関係者に呼び出されて大変そうだった。あまりに大変そうなので、「どんな言い分にせよ、相手からクレームが来たならば、まず謝ればいいじゃない!」と言ったが「とんでもない。こっちの主張は間違っていないのに、なぜ謝るのか?」と反論されたことが忘れられない。いや、そうじゃなくて、まずは不快な思いをさせたとか、であれば理由はどうであれ、まずはそのこと自体に詫びをしてから、その内容について議論をしてお互いの考えを理解するようにすればいいのではと思ったのだが、その意見はそのマスコミ関係者には通じず、残念に思ったことがあった。
マスコミにとって謝るというのは、自分の非を認めることで、それは職業的に汚点なのか、致命傷なにか知らないが・・・・なかなか難しい世界であるとは思う。
一方、国になると、もっと謝らなくなる。それも実は不思議に思ってはいる。
頭を下げることで、うまくいくならば、それも有効だと思っているのだが、私のような小さな存在と、国家という社会的単位とは違うのだろうか?
誠意をもった対応は、逆に好感につながるのではと思うのは、よろしくないのだろうか。
原爆関連の報道を見聞きして、だんだん不思議に思えてならないのは、それを日本に落とした国の人たちが、謝らないことだ。
もちろん戦争であるから、そのときそれを選択し、実施した側には理由もあったし、それがなければ戦争は終わらなかったかもしれないし、その正当化も立場を変えれば理解できなくはない。
ただ、人として「私たちの国がこんなことを昔して、本当にすまなかったね~。」という
気持ちがないのかなと不思議に思えてならないのだ。
遺憾であるという言葉はよく聞くけれど、この言葉は客観的すぎて、気持ちを本当に表しているとは思いづらい・・。
とにかく、メディアであったり、国であったり背負うものが多いと、だんだん謝れない?謝るときは自分が非を認め、相手に従属する覚悟ができたとき?・・・なんだか、人としてありがとうとか、ごめんなさい。とかもっとあっていいんじゃない?
なんだか被爆地の皆さんの苦難を思うと、心の中から怒りと一緒にそんな思いも込み上げてきてしまう・・。

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