最近、ハンディをもっている人たちのアートやスポーツの能力に
注目が集まっている。
ハンディを越えて、ハンディがあることで、私のような凡人(あえてそういわせていただく)にはできないことを表現できるのだから、人間の能力とは本当にすごいと思う。
今週も、そういったアーチストたちが毎日作品づくりに取り組む施設にお邪魔し、彼ら彼女らの創作風景と作品を見せていただき、その発想、どの技術に驚いた。
自由である、打算がない。そして、何よりも楽しそうだ。
そんな折、わが心の師、そして愛すべきベートーベンのことを思い出す。
聴覚にハンディがあるのに、音楽史上に残る楽曲を数多く輩出した。
生家に展示されている補聴器を見たことがあったが、医療もままならぬ当時、あんな
大きな道具を使わねば人とのコミュニケーションもできず、自らに浮かんでくる音の確認も
できず、いったいどうやって曲を仕上げていったのだろうと不思議でならない。
最後の作品、第九交響曲の初演時には。演奏後の観客の大喝采が聞こえず、そばにいた歌手がベートーベンを振り向かせ、やっとその反応に気づいたという話は、子供の時に呼んだ伝記にもあったが・・。障がいを乗り越え、才能の限りを尽くした作品。その努力への賞賛も拍手に込められていたのではないかと推察する。
ベートーベンが晩年にかいた手紙のなかにこんな内容のことが書かれているという。
障害をもつ自分が、それを超えて全霊を込めて曲を作っているのは、未来の人たちのため、
ハンディをもっていても、生きられるということを示したかったから・・・。
なんという崇高な人生かと、改めて敬意が湧いてくる。感動する。
そんなベートーベンをはじめ、精一杯表現しようと頑張っている方たちは、
彼らはアーチストであって、障がい者ではない。
誰でも、多かれ少なかれ何らかの障害はある。年を重ねていけばなおさらのこと。
だから、人をネガティブな面から区別するのではなく、ポジティブな面から見るようにしたい。
だから、障がい者という前に、作家さんといいたいし、アーチストと言いたい。
ベートーベンを障がい者という人はいない。まずは偉大なる作曲家、楽聖である。
今週、京都で出会った作家さんたちには、ぜひこれからも自由に才能を発揮してほしい。
そして、そんな彼らを心から応援したい。