このところ、とくに2~3年か、多様な出会い、交流が広がっているような気がする。
経営者から、組織で働く人たち、業種・職種、性別、年代、キャリアもさまざま。
いわゆるビジネスマンだけでなくアーチスト、政治に取り組む人・・・。そして障害を持つ人とも会い、定年を過ぎ、自由を楽しみつつ、健康に留意しながら過ごしておられる方たち、施設に入所されたり、利用しながら老後の時間を過ごす人たち・・・。どの人も(自分も含め)とにかく毎日を生きている。見えない明日の可能性を信じて生きている。明日は来るものだと・・・。
そう、生きる以上明日は来るのだ。と思っている。
そして、昨日は楽しかった、あのときは良かったという感動の記憶は生きるバネになっている。心豊かに生きるために、そのバネは強力である。
ふと、認知症になったときの記憶と感動について考える。
たとえば、私のコンサート。認知症になられた方には、ある意味毎回新しい、
新鮮な感動がある。
毎回新しいのだ。昨日の記憶はない・・。
但し、昔に楽しい経験、感動があると、何かがきっかけで(たとえば音楽の力で)その懐かしい日のことを思い出し、楽しむことができる。
先日のコンサートでも、そんな現象に遭遇した。急に昔の懐かしい体験談を話し始めるおばあさんがおられたのだ。
記憶という力は、残念ながら高齢とともにおぼつかないものになっていくため、
できれば、幼い日、若いときにたくさんの感動、経験をしておくのが良い。
その時の記憶は消えないから。
もちろん、記憶が難しくなる認知症になったとしても、感動をお届けする
意味は大いにある。今を楽しむ、今という瞬間を満喫することが、明日への
活力につながるから。
人生において感動は、いつの時にも生きる糧。
でも、できる限り覚えていたいから、若いうちにできるときにいっぱい
豊かな経験をして、心の引き出しにたくさんの感動を詰めておこう。
もちろん記憶力を低下させないために学び続ける、脳を活性化させ続ける努力は
同時に重要だ。
感動と記憶。
多様な人に出会うことによって、そんなことを何度も考える。
そんな学びの日々である。
明日は岐阜新聞でのコンサート。おそらくここに来られる元気な皆さんは
その時間を記憶されるだろう。しっかり心に残る寶の時間にしたいと、
改めて思う。
記憶と感動。
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