4月8日。4月の第二土曜は、わがふるさとで300年の歴史を有する、「手力神社の火祭り」の開催日である。奇祭ともいわれ、岐県重要無形民俗文化財として、地元の人たちが
大切に守っている祭りである。
当日、境内に各町内の行燈が高くそびえているのを見て、ああ、祭りが開催されるのだと
高揚感に包まれる。3年間、中止が続いてきただけに、地元の期待もひとしおだ。
毎回、この日のために、時間をかけて町内ごとに企画を練って、花火が仕込んである神輿をつくる。当日は神輿の町内巡行から。他爆竹をならして激しい金の音とともにその神輿で町内を巡ったあと、夕方には、神社に宮入り。この爆竹と金の音、そして神輿が去ったあとの火薬の匂いは独特で、ちょっと中国のまつりのような激しさもあり、音が町内中に響いていることで、「今日は祭りである」とハレな気持ちになる。
夕方、花火大会が開始。各町内でつくった神輿は担がれたまま、順番に着火され、そして花火が噴き出す。瞬間に神輿が火が包まれ、境内は非日常の世界に変わる。その火の粉のなか、神輿を男衆は境内を担ぎまわる。その後、行燈への着火、滝花火など他で見ない、動の花火が町民の力で奉納される。
男性たちが着用している半纏には火の粉で穴があき、やけどをする人や、命をおとされる方もおられたり・・。ダイナミックである一方、大変危険。それでも受け継がれてきた。
まるで火のなかに、いのちを奉納するような、そんな緊張感高まる、祭り。動の神事。
京都で見る雅で美しい祭りとは、まったく違う激しい祭り。爆竹を使う点は、長崎の精霊流しにも共通しており、どこか大陸文化を感じる特徴がある。(詳細はこれから調べることにする)
この祭りを見ながら18歳まで地元で育った。ふるさとを離れても、この祭りの日は、実家に帰り、爆竹と金の音に耳をふさぎながら、ふるさとに帰った幸せをしばし感じて、そして
何より父がはりきっている様子を見るのが、恒例行事であった。
地元で生まれ、育った父には、この祭りは「俺の出番」といった一大イベントであった。
あの神輿は危険であるので、素面では担げないと、皆さんある程度お酒を飲んで参加していた。とにかく地元の男衆が力をあわせて、つくる、担ぐ、そして花火を自分たちで仕込み、行う。いのちを賭けた手作りの火祭りが、今も受け継がれている。
コロナで三年中止されたこの祭りがようやく再開したことで、
ふるさとに久しぶりに本当に春が来たといえよう。
両親が生きていたら、この祭りを喜んで見ただろう。もう一度、見せたかった。
神輿を担ぐ地元の人々を見ながら、半纏姿の父の姿を思い出し、激しい金の音に紛れて
ひとり泣いた。
この祭りは、両親へのもうひとつの弔いであるかもしれないとも思いながら。
三回忌の年にこのまつりの再会。
ひとの命は限りあるが、まつりは、まだまだ続くし、続いてほしい。
いろんな数えきれない思い出を胸に、まつりを巡り、さまざまなことを想う、再開の
日であった。
地元のみなさま、大変大変お疲れ様でした。
ふるさとが誇る「火祭り」再開。
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