「宿命」と「運命」。時々意識しながら、それでも普段はあまり考えないで生きている。平和であり、平凡な日常であれば、それを考えることはあまりないかもしれない。それはそれで幸せなことだ。
今回、初めてハンセン病の資料館を訪ねた。以前、九州にある施設を天皇皇后陛下が訪ねられたときのニュースを見たときに、気になった。しかし、身近にそのことを知る場所があるとは調べることもなかった。20年前までは、この病のことは社会にきちんと知らされておらず、間違った解釈で世の中から隔離されてきたとのこと。実際、私たちが子供の頃だって、その病のことは知る機会もなかった。闇に葬られ、そんな病気は世の中に存在しないかのように処理されてきた。
今回、この病の歴史、社会的な対応、患者さんやご家族の暮らしを展示物や解説から垣間見ることができ、ショックを受けた。罪を犯したわけでもなく、人を傷つけたわけでもなく、ただその病気であるということだけで・・・こんな風に社会から隔離され、生きなけれなならないとは・・。
衛生面や医療の進歩により、現在では完治もするし、新たに発症する人はほとんどない状況になったが、原因も解明できなかった時代は、奇病として扱われ、人間扱いされずに生きなければならなかったようだ。
この病になってしまった・・ということはある種の「宿命」なのだろう。ずっとそれを背負って生きるしかない・・。努力して変えられること、時が経てば改善されること・・その当時はそんなことも求められなかったであろう。
どんな苦痛をもって、悲しみをもって生きておられたのかと思うと・・。
もし自分が同じ立場だったらと思うと、恐ろしいとさえ思った。
そして、五体満足に生きていられる現実に感謝しなければとも強く思った。
患者さんのなかには、自分の思いを表現すべくいろんな活動をされる方も多かったようだ。言葉や文字や、芸術作品や音楽で自分の思いを表現することで、自らを慰めたり、アイデンティティを保ったりされたのだろう。
それらの作品にも触れることができ、偉いな。苦しいのにつらいのに立派に生きなさって・・と深く感動した。
人はその時代、そこにある社会の中で生きることしかできない。それゆえの苦しみもある。でも時代が移い、その苦しみが希望に変わることもある。
でも、それは先人たちの犠牲あっての今日なのだと思う。
だから歴史を忘れてはいけないし、そこから学ばなければならないのだと思う。
ナチスのアウシュビッツのような隔離。もちろん相手は病気であるから、まったく違うのだけれど、地獄のような世界。。そんな世界がどんな理由であってもあってはならないが、いろんな意味で「そういう時代だった」。ということなのか・・。
展示の最後に、患者さんがかかれた1冊の絵本「すみれ」という作品の展示が気になった。
一人ひとりの人間、どんな人であっても一生懸命生きている限り、道端に咲く、美しい一輪のすみれなのだという教訓。誰が見ていようが見ないでいようが・・。美しい一輪の花として咲きつづけているのだ。その意識こそが、大切なのだ。
社会って何だろう。今、「ノーマライゼーション」と言う言葉で、いろんな立場、人々の葬儀理解と共生が叫ばれている。そうなってきた時代に感謝しながら、その犠牲になってこられた方たちを忘れずに生きたい。一人の人間にとって宿命は変えられないけれど、歴史の中では、その宿命が教訓となって生かされることがある。とても皮肉で悲しいけれど、人間の歴史はその繰り返しかもしれない。
本ブログをごらんになった方には、ぜひこちらの資料館、一度は訪ねてみていただきたい。
「宿命」と「運命」を改めて考え、問う時間
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