それでも私は生きている。今年の締めに。

2022年最終日を迎えた。
町のあちらこちらに、門松やしめ縄などが飾り始められると、
一気にお正月ムードが高まる。
食品売り場はおせちを求める人で大賑わいだ。
今日は最終日ということで、さらに大混雑になるだろう。
なぜ、みんなが駆け込んで混み合うことをするのか?は、毎年の
素朴な疑問であるが、それも年末ならではの風景。
一種の祝祭の姿なのかも?

昨年の自分は、親の旅立ちが続き、なんという気持ちで大晦日を
迎えていたのだろうか。
今は、それすら思い出すことができない。
どこか、体の一部の力が抜けたような、何かが足りない、そんな
不安定な状態であったかもしれない。

あれから、1年を駆け抜けた。
途中、突然悲しみが迫ってくる日や、会えない寂しさを感じる
時もあったけれど、いつのまにか、それらも自分のなかに
うまく溶け込んで、気が付けば1年、元気いっぱいに生きてきた。
悲しみも寂しさも抱きしめて一緒に生きるのが人生だと、
そんなこともわかってきたように思う。

見えない親との会話も自然とできるようになった。
ある意味、どこにいてもいる。そんな気持ちにも慣れてきたのかも
しれない。

親がいなくても、生きる。生きなくてはダメ。生きられる。
ほんとうの意味での自立。
おためしの1年だったかもしれない。

生きられるのかなと思っていたのに、ちゃんと1年生きられた。
2022年とは、自分にとってそんな1年であった。

親がいなくても、何があっても、
それでも、生きている。
それが人生だ。自分が息絶える瞬間まで生きるのだ。

いろんな出会い、思い出がまた増えた1年。
今日は最終日。
悔いのないように365日目を終えるとしよう。

今年一年、大変ありがとうございました。
どうぞ、良いお年をお迎えください。

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