ある施設の行事で、あるアーチストの方を紹介される。なんでも流木仏をおつくりになっている方だそうで、いきなり「あなたの作った曲、なんども聴いて、覚えているんですわ。これよかったら・・・」といいながら、ベルベットの黒い布にくるんだものを差し出される。布をほどくと、なんと、ブロンズカラーに色彩された仏さま。見様によっては、マリアさまにも、観音さまにも、不思議なオブジェにも見えるのかもしれない。素材そのままの形を生かされた、抽象的なまるさ、やさしさがある彫り物。「これ、流木で作っているんです」突然の出会いで、緊張してしまい、咄嗟にいろいろ言葉が出てこなかったが、流木に対する思いがおありになり、自ら海へ行きそれを求め、拾い、自らの手で作品にされている。なんとまあ、このようなことをする方がおられるのだ。見た目やさしい、まるい形の仏さまは宗教的にという以上に、人として根本から癒される感じがした。
へえ、こんな大切なものを私に・・。あまりの感動に言葉がない。「あなたが作った歌詞で『生まれてきたただそれだけで しあわせだと感じていたい・・・』っというところが大好きなんですよね。それと同じ気持ちなんです・・、よかったら・・」その作家さん、多くを語られなかったが、思いはずしんと伝わり、ありがたくその流木仏さんと、松の皮で作られたアクセサリーを受け取らせていただく。帰り道、見舞いたい人がいて、そちらを訪問。いろいろその方とお話ししているうちに、「今日いただいた流木仏」のことをお話ししたら、見せたくなり、黒い布から仏さんをその方にお見せした。「ああ。いいですね。優しそう。見守ってくれているという感じで・・・」と言われた。そうだ、この仏さんは、ここへお守りとして預けさせていただこうと提案すると、大変喜んでくださった。「床の間に飾らせてもらいます。毎日これを見て、元気つけます」。この流木仏さんが、私の気持ちとともにお守りとしてそこにいてくれたら、安心だ。病気も治るに違いない。
流木に出会うこと、それを拾うこと、作品にすること、人の手に渡ること、人が安らぐこと。流木という存在に目を向け、向かい合い創作を続けるアーチストとお会いし、静かな感動を得る。人もそれぞれ、流木のような存在なのだとも、思った。
流木に魂を注ぐ人
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