なぜ、この人が言っていることが、すとんと自分の中に入ってこないのだろう。素直に聞こうと思えないのだろう。これまでわが人生で出会った人のなかで、「この人の話は聞きたくない」という例は、そんなに多くない。たいがいは、まずは聞こうと思うのだが、どうしても受け付けない人も稀にある。その人の話し方をコミュニケーションクリエイター的に観察する。なぜ、聞こうと思わないのだろう、目をそむけたくなるのだろう。その理由は、相手の目を見て話していないし、自分の言葉で話していないからだ。何かを暗記しているような、誰かに言わされているような、そこにいない誰か抽象的な存在?に向かって話しているようなそんな良くない空気が漂っているからだ。謝るときもその当事者に向かってではなく、身内に向かって謝っている。コミュニケーションのターゲットも違っているようだ。
つじつまの合わないことを、力でもって、反知性でもって押し切ろうというその根性が透けてみえてしまう。残念だが、見る人が見ればわかることだろう。
勇気と英知をもって、自らの言葉で語りかける。「言葉」で仕事をしている人であるならば、なおさらのこと。そうであるべきと思う。
英語で話そうが、かっこいい演出をしようが、一見、女性の肩をもっているような「とってつけたような」キレイごとを言われても、全然入ってこない。「それで?」と思ってしまう。誰をみて仕事をしているのか?余計にこの人の話を聞こうと思わなくなる。
最近、国を動かす仕事をする人の世界には、自分が住む世界とは別の世界の生き物がいる。そんな感じがしてしまうのは私だけだろうか?別世界の生き物たちが、リアリティのない言葉でもって世の中を悪くしていっているような・・。これは、現実のことと思いたくない、そんな意味での別世界だ。
情熱をもって、覚悟を決めて、命を懸けて生きている人が好きだ。下手でもなんでもいいから、心を込めて自分の言葉で表現しようと頑張る人が好きだ。
自分の言葉。自分の言葉は自分で経験し、自分で苦労したところから生まれるものだ。もっともっと自分の言葉にこだわって生きていきたい。
もちろん、これからの社会に悲観的であってはならない。問題が多いとしても、時代は必ず変っていくのだから、それに向けて自分ができることを、たとえ小さなことであっても気づく人が行動すればよい。そう、自分の言葉で、伝えるべき相手をまっすぐ見ながら。
「自分の言葉」で話せる人に。
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