司馬遼太郎が、クリスチャンでもないのにザビエルに興味を抱き、その生誕の地から大航海の出発点まで足を向けた記述を知り、わが人生の取り組みテーマも、まんざらではなかったと一人で歓喜に沸いている。
司馬氏は著作で、これまた共感できることを書かれている。人が集中するところ、集まってくるところ・・・には文明が生まれる。ある場所に大勢の人が集まり、そこで生活するとなれば、確かにインフラが整う必要が出てくる。だから文明が生まれる。エジプトも中国も、メソポタミアも、インドも・・・そうだ。都市が生まれると、そこには文明が生まれる。要するに人が生きるに必要なモノ、コトが文明。
これをメジャーとすれば、文化はマイノリティから生まれると定義されている。少数派の思いやメッセージを届くように、独自の手法で表現しようとする・・・自分たちの存在をアピールするために書いたり、つくったり、歌ったり・・・。そう、マイノリティから文化が生まれる。文化とは本来そういうものだ。
今やどこも文化都市をめざし、美術館を作ったり、お祭りイベントを企画したり、すっかりそれ自体がメジャー的になっているが、本来の文化とは、どこか悲しかったり、デカダンであったり・・・するものである。
最近、聴いた障がい者アートのこと、また売れないでひたすら自分流に活動しているアーチスト(自分もその領域に属する)などのことをあれこれ思うと、そう、文化はマイノリティの生へのメッセージなのである。
商業主義とは別の、魂の叫び、嘆き、独白。
司馬氏の考え方からすれば、メジャーから本当の文化は生まれないだろうか?
久しぶりに、真の意味の文化~アート~の意味を考える機会を与えられ、心がとても調子いい。孤独であることを憂う必要はない。何かに表現すればいい。いいものは響き、伝わり、残る。売れる売れない、有名無名とは、無縁であることが心地よい。
文化は「マイノリティ」から生まれる。
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