コロナで変わったことを改めて。

約3年ぶりか。コロナ前に似た、生活が戻りつつある。
ずっと受講してきている大学の講座も、コロナによりオンラインのみで
開講していたが、やっとやっと対面授業が再開となった。
でも、オンラインも可能という、ハイブリッド式に。
今の私にとっては、とても都合が良い。

今回も私自身は、パソコンのモニターから、先生の話を聴く。
去年、一昨年前の授業は、毎回先生の仕事場からのリモート形式で
話自体はもちろんよくわかるが、2D故の不自由さも感じていた。
先生自体も、顔が見えない相手に向かって話をされて、大変だったと
思う。オンライン面談はまだしも、相手が顔出ししないで聴いているであろう
相手に向けて90分もの時間、一方的に話すのは、やりづらいはずだ・・
そんななかで一生懸命伝えようと工夫されている姿にエールをおくりながら、
受講していた日々。

ところが、今回からは違う。
先生は、出会った当初と同じく大学の教室で話されており、先生の前には
何十人かの受講生がおられるので、先生自体の熱、気迫を感じる。
言葉の力が違う。ああ、こういう授業だったと、懐かしく思い出す。
モニターを見てしゃべっているのでは、やはり伝わりづらい。

相手がいると場の空気が変わる。こちらがオンラインであってもそれが伝わる。
ただ、前回までは、先生の顔にマスクはなかったから顔全体が見えた。
今日の対面授業。先生の顔にはマスク。本当は顔全体が見えた方がもっと伝わる。
ここは残念。でもやむないこと。
とにかく、対面授業も復活でき、めでたしめでたし。
先生の冒頭の言葉より。
「コロナの前と今で、何がどう変わったかを検証することは大切ですね。」

世界の有識者たちが、コロナがはじまった頃、コロナは世界にどんな変化を
もたらすか・・・について、さまざま説を投げかけた。
その当時をふりかえり、そして実際にはどうであったか。という検証だ。
その予測はどの程度合っていたのかどうか?である。
そう、情報を受け取る側は、受け取りっぱなしではいけない。
それを比較しながら、実際どうであったかを考えなければいけない。

確かに世界にはさまざまな変化が見られたし、コロナによって
むき出しになった面もあったが、
世界を振り返る前に、まずは自分から。

コロナがもたらした変化についての総括。
ここは大切だ。なんとなく、流され忘れそうになっていたかもしれない。

私にとっては、最初に書いたように、コミュニケーション環境の変化が
大きい。行かなくても、コミュニケーションができるというメリット。
会えない苦痛の日々もあったが、移動しなくても伝え合うことはできるという
発見。これは通信技術の進歩のおかげともいえる。
一方、生で伝えたいことへの願望、欲求がさらに高まった。
感動はやはり、生に限る・・・と当たり前だった、ライブ感のありがたみを
痛切に感じた。
あと、日々の仕事に関して。おかげさまで、コロナによるダメージは最小限に食い止める
ことができたようだ。これはひとえに仕事の環境、相手先様の理解や協力のおかげ。
リモートでもできる業務が多かったことは、本当に救い。
もちろん小さなマイナスの変化はあっても、これは次に向かうために、
コロナが背中を押してくれたぐらいに感じている。

そして、自分の一番の変化は、
コロナ前には元気であった両親がこのコロナ禍で、いなくなったこと。
コロナが直接の原因ではないが、この時期でなければ、元気でいてくれただろうと
確信している。
この変化は、私にとって、一番大きく、重いし、一生、コロナの変化として
忘れない。

でも、私は元気にその経験の上に、変わらず元気に生きている。
生かしてもらっている。

コロナでいろんな変化があったけれど、それを乗り越え、こうして俯瞰しながら
ふりかえりができる、この「今」に感謝したい。

コロナにより、世界(国内含め)の動きにも、より敏感になったかもしれない。
これも自分のなかの変化かもしれない。
また、コロナを利用する政治の存在をより感じるようになり、
しっかり物事をみつめなければと コロナ前より、厳しい目をもつように
なったかもしれない。

間違いなく、コロナは現代を生きる世界共通言語のような存在になってしまったが、
人間社会をみつめる上では、本当に貴重な経験であった、今、まだ
終わってないから、経験まっただなかであるが。

と、久しぶりの対面授業の様子に触れ、ウィズコロナの生活がさらに
前に進み始めたことをうれしく思う。

近いうちに、久しぶりに教室に足を運び、3年ぶりに先生の生の声を
聴きたいと思う。
学べる自由。ありがたい。

コロナ前になかった戦争。この忌まわしい現実が早く終わるように。
その想いを胸に、感謝を忘れず、世界に目を向けたい。

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