喧嘩できることの幸せをかみしめる。

父の日が過ぎた。父の日に父がいてくれて、元気でいてくれて、よかったなとしみじみ思う日だ。
昔はそんなに思わなかったけれど、最近は、あと何回父の日?あと何回誕生日?あと何回会える?など思わず思ってしまう。
だからその節目節目を大切に、心を込めて尽くしたいと思うけれど、やはり喧嘩は絶えない。
「札幌から海のものが日曜夕方届くからね」と電話すると「そんなもん、いらん。もう何にもしてくれるな」超一流のにくたらしい毒舌で、
素直に感謝すればかわいいのに、と何十年も思ってきているがそのあたりは今も健在。
でも、そのように親の発言にむかついたり、腹が立つほど、親にパワーがあるという点では、感謝すべきことなのだと、周りから教えられる。
父は帽子会社の職人として修行し、定年まで45年ほど働き、家族を養った。あんな安い給料で、よくピアノもエレクトーンも習わせ、楽器も購入して・・・。よくやってくれたな~。自分が働くようになると、どんな思いで・・とこみあげてくる。もちろん将来に向けての、親の下心?もあったかもしれないが、それにしても、頭が下がる。
中学生のとき、私がいわゆる不良生徒と何かをしたとか何かがあって、一度、学校に父が呼び出されたことがあり、大目玉をくらったことをふと思い出した。
そう、親の顔に泥を塗るということが一番あってはならないということを学びつつも、目立つことをすると、親はとても嫌がるのだということも幼き時代に学び、そして何年かして、家を出ることになった。
母の存在も大きいが、ずっとアッシー君であり続けてくれている父の存在は、私にとって大きすぎる。
あと何回?この気持ちはこれからますます高まるだろう。1日でも長く喧嘩できることを願っている。

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