今、長崎のある役所とのやりとりが少しはじまっている。メールを1本出しても、すぐに返事は来ない。最初はやきもきもしたが、メール返信なければ電話をすればよい。電話をすると、不在であっても「返事しなくては」というモードになるようだ。遅いな~。届いていないのかな~。コミュニケーションは双方的であると常に思っているが、投げ合う玉のスピードがそれぞれ違い、互いにカルチャーショックを受けているようなところも、最近は楽しんでいる。
静かな時間が流れている場所。人口も減少気味。とくに若者がいない。東京から行くのにも何度も電車やバスを乗り継ぎ、大変な距離と時間をかけて、やっとたどりつく。まさに別世界であり、東京暮らしに慣れている者からすれば、異国のようなタイムトリップしたような不思議な感覚にもなる町だ。
そこで学ぶ。時間の流れ方は決して一律ではないということ。そして情報の量も然りだ。
速ければ良いのでも、多ければ良いのではない。
今回のやりとりを通じ、いかに自分が日々、時間どおりにとか、計画を段取りを早く・・という相手を追いかける、せっかちな生活をしているのかと反省もする。
役所の人もきっと何者がやってきた~!何事じゃ~。とびっくりされているに違いない。
時間の流れは、風土とともに、歴史とともになのかもしれない。
ますます情報量が増え、落ち着きのない騒々しい東京の中で、遠き長崎の港を思い出し、わが暮らしの有りようを反省もする。
きっと神様が、ザビエルさんが、わが暮らしに反省を促すようにめぐり合わせてくれたのだろう。
時間の流れ方と情報量。
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