裏返しの写真。

よく家族の写真を仕事場や自宅で飾る人がいる。
とくに遠く離れている場合、会えない場合には、そうするだろう。

親の写真。
両親が元気なころ、身の回りに写真を飾るということはなかった。
実物がいるわけで、また声もすぐ聴けるし、メールも送れるわけで・・。
そんな頃は、写真を持ち歩くことも、飾ることも・・そんな発想すら
なかった。

そして、亡くなってからは、
実家の仏間やリビングなどに、小さめの写真を何枚か飾り、
戻ればその写真を見て、話しかけている。
そこはもともと親がいた場所であるから、自然とそうなった。

一方、自分の自宅には、同じ小さいサイズの写真。
しかし、基本的に裏返しにしてあり、何かあるときに
ひっくり返して、ちょっと見て、また裏返しにしてきた。

別居してきた親の写真が飾ってある・・というこの風景に、
慣れないというか、なんだか写真を直視することができず、
この世にはもういないのだということを認めることができず・・
とそんな心理かもしれないが、とにかく
この1年間。基本的に写真を裏返しにしてきた。
両親がいないということを、信じたくなかったのだろう。
見ると哀しみがわいてくるのを避けたかったのだろう。

母の旅立ちから1年経ち、最近、やっと写真を表向きにしても、
平気な日が増えてきた。
表向きにしても、見ない。直視できないことが多いが
それでも、裏返しでなくても、平気になってきた。

ただ、写真を見て話しかけることは、まだできないでいる。
写真を見ると、会いたくなってしまうものだ。
だから、じっとみつめることはできないが、
いろんなことに、だんだんと慣れていくのだろう。
慣れるということは、その環境に一体化されていくということ。
無理せず、自然体に。
もっとも、写真がなくても、見なくても、心のなかに
棲んでいる、いつもいる。

カテゴリー: Essay (Word) パーマリンク