「最期の自分」を考える。

会社役員をこの春退職された方から、ご挨拶状が届いた。
その中に手書きでひとこと
「次に進みます!」
とあるその一言に、拍手を送りたい気持ちになり、すぐメールをする。

60代前半。まだまだ働ける会社という職場を一足早く卒業され、
次なる挑戦をされるのだ。もっと大きい社会へのデビューのための
卒業だ。本当に素晴らしいこと!!

ふと、自分の35歳のときの脱サラの時のことを思い出しつつ、
いや、60歳過ぎてからの挑戦は、より重いものであると
思い直す。比べものにならない。
若いころの勢いだけではなく、長年の経験や知恵や人脈を
踏まえての決断という出発なのだ。
苦労されてきた分の重み、存在感と自信を感じる。

すぐ連絡をとってみると、こんなメッセージが返ってきた。

「いつ死ぬかもしれない。しかし、いつも険しい坂道を上り続けたい。
たとえ、死ぬときはどぶの中でも、前のめりで死んでいたい。と
坂本龍馬の言葉がありますが、自分のなかには、そんな気持ちがあります。」

うわ。かっこよすぎる!
最期の最期まで 受け身ではなく、生きてやる!やってやる!の
前進一路である。

これは、その方がこれまで生きてこられた歴史からにじんでくる
生きざまである。

最近、ある日突然、狂暴により、人生を止められてしまった
ウクライナの人々のことを思うとたまらない気持ちになっていた。
こんな最期ってあるか?ありえないことが起きている。
抵抗しながら、あるいは抵抗もできずに・・・自分の意志とは
関係なくいのちを奪われた人たち・・・。
こんな最期ってあるか?

この現状を自分に置き換える。
戦争で最期を迎えるのだけは、絶対嫌だ。
平和のなかで、自分と戦い、そして果てていく・・。
そんな終わり方がいい。そうありたい、願いたい。

「最期」という言葉で話が揺れたが、
いずれにしても、常に自分の最期を思いながら、
走り続けること。
これは、いいことだと思っている。
私の最期は・・・
ピアノを弾きながら、息絶えたら最高。
それは、ちょっと難しいかも?でも妄想は自由で幸せだ。

いずれにせよ、自分の意志で生きたい、生き切りたい。

話しを戻す。
挑戦する知人に心からエールを、そして
狂気の戦争が早く終わって、世界が平和になるように、
今日も祈りつつ、私も元気に走り出そう!



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